横浜元町ヒストリー

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01 焼け野原を前にしてみんなが一つになって 福島邦典

福島邦典さん

熱風に一瞬にしてのみこまれた元町

米軍による本土襲撃が激しさを増していった昭和20年、私は勤労動員で横浜造船所(三菱造船所 現 みなとみらい)にいました。製缶工場の粉じんで体調を崩し、事務所に配転され戦地に赴いている従業員に、家族手当にあたる給与の一部を支払う送金事務を担当させられていました。多いときには1000人分の振替用紙に書き込むという、いま考えても大変な仕事で毎日のように夜遅くまでかかりました。ときには100円を超す現金を、一人で桜木町郵便局まで発送に行きました。私はY校(市立横浜商業高等学校)の生徒でしたが、戦争の激しくなった昭和19?20年は学校へ通うことが次第に少なくなり、最後はほとんどなくなりました。

横浜大空襲のあった5月29日、私は会社の指示で女性従業員を掃部山(かもんやま 現 掃部山公園)の横穴防空壕に避難させよとの命令を各工場に連絡を済ましたあと、自転車で元町に戻りました。間もなく上空を埋め尽くすように飛来したB29、500機から焼夷弾が雨のように降ってきました。P51、100機の機銃掃射もありました。凄まじい炎と立っていられないほどの熱風は元町を一瞬にしてのみこんでいきました。ものの一時間もしないうちに横浜は焼失しました。自分の家は跡形もなく、貴重な写真などもすべて焼失しました。

まだ戦争が終わっていないので、連日、空襲警報のサイレンに満足に眠ることもできない日が続くなか、焼け野原になった元町に踏み止まった人たち(町内会役員など)によって生活の基盤である衣食住の確保が始まりました。当時の元町は、東部、西部の二つの町内会に分かれていました。私は東部(1、2、3丁目)の住民でした。焼け残った加藤さんのガレージ(元町1丁目12番地 現みなとみらい線元町・中華街駅入り口)を借りて仮の事務所とし、さっそく、食料の配給を始めることになったのですが、若い者は私一人しかいません。やむを得ず、その日から、29の隣組に配る食料やその他の物資を受け取りに、リヤカーを引いて横浜東宝会館(馬車道 現 関内ホール)、寿町市場などに日参しました。リヤカーいっぱいに積んで帰ると事務所前の道路に食料品(鮭缶、大豆の絞りかす、もやし、鯨の皮、サツマイモのつる、たまに鰯など)を区分けして並べました。そして隣組に連呼してまわり、配給のあることを知らせました。

生きる力にあふれた人たち

配給に追われる間も空襲警報は続いていました。私は8月1日、この場所(元町1丁目20番地)で母を亡くしました。そして8月15日、終戦を迎えることになったのです。戦火の中、唯一持ち出したラジオで天皇陛下のお言葉を聞いたのも、つい先頃のように思い出されます。このラジオはいまも大切に保管しています。翌16日は、グラマンF6F、P38などが超低空で横浜の空を飛び交い、おそろしい思いをした記憶があります。連合軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に降り立った日から、世の中は一変しました。横浜は日本で最初の占領軍駐留のまちになったのです。街角には銃を持った兵士が立ち、ジープに乗ったMPが市内を走り回っていました。

そんな慌ただしいなかで、元町の復興は始まりました。復興という言葉を使うと重々しいのですが、戦争から解放され、貨幣価値も暴落するという混乱の中で、何をしたらいいのかわからずに過ごした時期がありました。それでも、資材になるものをどこからか集めてきてバラックを建てました。英語が堪能だった石川庄之助さん(ヒル薬局)、石橋豊吉さん(喜久屋)、織田城嘉さん(ポピー)などが中心になって復興計画を立て、暮らしに必要なことから始めることにしました。北村嘉一さん、石渡作太郎さん、家田実さんや石橋久義さんたちもいろいろ協力してくれました。

やがて3丁目の角(現CHARMY TANAKA)に町内会事務所ができ、私は転出入、郵便物の取扱いなども一年以上手伝いました。医院を誘致するために、長塚先生を避難先から町内会事務所に転居をお願いし、仮設の診療所を作りました。銭湯(元町温泉)を作るために、石川さんと同郷の富山県から飛島組(現 飛島建設)が駆けつけて建設に尽力してくれたこともありました。電信柱とは名ばかりの柱を作り、電気を引いたりと、元町の人たちも誰彼となく、自分たちにできることを探してまちづくりを進めていきました。若者はほとんどいませんでしたが10代の若い盛りの私も、少しは力になっていたと思います。

いま思いだしても、あの頃は落語のような出来事の連続でしたねえ。

よく覚えているのは石川さんと石橋さん、織田さんが前田橋の向こうの焼け跡ビル、のちの日本クリーニングの建物に進駐軍相手のクラブを開いた時のことです。「キャナル・クラブ」と呼びました。いまで言えば米兵の給料目当てのアミューズメントスペースといった趣です。一階はダンスホール、二階はゲームセンターのように仕立てよということなって、横須賀の花街まで若い仲間とビリヤード台を取りに行ったりしました。「キャナル・クラブ」には生麦の麒麟麦酒の工場から毎日、馬力(馬車)一台分のビールが運ばれてきました。連日、ホールを閉めたあとに、米兵が飲み残したビールを飲むので、おかげで酒が強くなりました。

山登り、スキー、バレーボールに野球

終戦から数年たち、スポーツにいち早く目を向けたのは若いグループでした。エネルギーを発散する場がほしかったのかも知れませんね。自分たちは元町の人間なんだ、という自負もあったと思います。会の名称は「元町クラブ」としました。山岳部ができ、野球部やバレーボール部もできました。

山岳部では、横浜駅から神中線(現 相模鉄道)に揺られて丹沢へ行き、沢登りに熱中しました。山登りの装備などないころですから、手弁当に下駄履きで草鞋を持参して、ときには釜まで持っていって河原で食事をしたり…いまではなつかしい思い出です。

山岳部はその後、元町スキークラブに発展しました。最初のうちはスキーのできそうな菅平を選びました。当時(昭和22、23年ごろ)はスキーを電車に持ち込むことができなかったので、廃材を利用した木箱に入れて、菅平の最寄りの真田駅留めで送りました。出かけるときに、忘れちゃならないのが釘抜きです。それは、駅に届いている道具の入った木箱をあけるのに、絶対に必要だったためです。

駅からのバスやゲレンデのリフトなんてもちろんありません。スキー場まで何キロもスキーを担いで雪道を登りました。ようやくの思いで着いた山小屋では、当時なかなかお目にかかれないコーヒーが味わえたのですが、夜になると枕元に積雪ができるといった安普請です。ゲレンデというのも名ばかり、単に岩や樹木のないスロープで朝から新雪をスキーで固めないと滑ることができないありさまでした。人影もほとんどなく、三浦雄一郎さんのお父さんがオーストラリアの兵士にスキーを教えていたのを覚えています。

バレーボールは、長めの紐を張ってネットの代わりにして。どこかから見つけてきたボールで楽しんでいましたが、その貴重なボールがパンクすると、修理するまでできなくなるわけです。野球も、グローブをしてたのは投手と捕手だけといった状態から始まり、のちに少年野球へと発展していきました。

本物との出会い

私は昭和23年、町会事務所の仕事が区役所に引き継がれたのをきっかけに織田城嘉さんとともに婦人服の販売(ポピー)を始め、その後、紳士服も手がけるようになりました。私の役割は、デザイン(店舗デザイン、マーク、商品の製造発注)と販売でした。やがて元町ポピーには、連日、アメリカ駐留海軍の軍の将校やCIAらしき人物など、おしゃれな外国人の出入りが多くなり、東京からは有名人が次々に来店するようになりました。

ある日、ニューヨークから来た海軍将校が「こういうシャツを作れるか」と自らお持ちになったのが、いまではポピー定番のボタンダウンのシャツ、しかも紛れもないブルックス・ブラザース製の本物だったのです。 そのころ、米国のファッション雑誌でしか紳士服の勉強ができなかった私には、本物のシャツが輝いて見えました。おそらく戦後、日本で最初にブルックス・ブラザース製のシャツを入手したのポピーだろうと思います。

静かにまちを見守りながら余生を楽しむ

話し出せばきりがないですね。しばらく忘れていたことが、あれこれ話すうちに順序不同で思い出されて、考え方によっては、生きることに張りのあるいい時代を生きてきたなあって思います。戦後の再出発からの歩みを振り返っても、元町はいつもその時代ごとに素晴らしい人たちが集まり、一つになってやってきた。時代とともに人が変わっても、まちはつねにいい方向へと変わっていく。時代の変化を察知して変わっていかないと、まちも自分たちも生き残っていけない、という思いが無意識のうちに元町の人たちは引き継いでいるような気がします。

私は70歳を迎えたときに車を手放し、以来、ハンドルを握ることをやめました。好きだった車から距離を置くことで自分の考え方や行動を、自分で変えていかなければならないと言い聞かせるためでした。IT(情報技術)時代は若い世代のまちづくりが必要で、新しい情報、新しいリーダーに大いに期待したいと思います。老兵は一線から退き、静かにまちを見守っていきたいと思います。16歳のころから戦後の元町にいろいろな形でかかわらせていただいたことを感謝して、今後は自分にできる余生を過ごしていきたいと思っています。

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