横浜元町ヒストリー

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横浜元町ショッピングストリート



02 ボタンダウンにクラブタイ 織田正雄

織田正雄さん

私は石川県小松市に近い寺井というまちで生まれました。生家は古くから陶芸品を手がけていました。焼き物を作りながら、九谷、伊万里、薩摩なども扱っていました。明治14年、祖父の織田庄作が横浜に出てきて弁天通り(現 関内の一角)に陶器店を開きました。九谷のほか、瀬戸からも陶器を取り寄せて販売していました。一時期、弘明寺(南区)に織田オリジナル陶器を焼くため、自前の窯を持っていました。人が立ったまま出入りできるほどの大きさで、使う電気で市電(路面電車)一両を動かすことができました。 関東大震災まで弁天通りで商売を続け、その後、元町一丁目に移りました。

私は高等小学校(現在の中学生)のころ、父とともに横浜へ出てきました。織田陶器店は戦後、東京のお得意先からの注文を受け、白い生地の皿などに花鳥風月の和風絵を描いたオリジナルディナーセットを制作し、納めることが増えていました。運ぶのは私の役目でした。

納めるといっても1ダース単位のディナーセットは梱包するとかなりの数、重さになります。朝早く起き、荷造りしてリヤカーに積み込み、弁当を持って6時に出発します。当時の第一京浜国道は荷馬車が行き交い、たまに車が走ってくる程度です。リヤカーを引く自転車はスイスイ走れました。川崎を過ぎ、多摩川に着いて弁当をひろげ休憩をとります。お得意先はもうすぐです。納品を済ませ、元町へ戻り、残りの荷を積んで再びお客さまのところへ持っていく。そんな日が続きました。山手にもたくさんの外国人が住んでいましたが、織田陶器店に注文をくれるお客さまの多くが東京の方たちでした。口コミで評判が広まり、スペイン大使館からも大量のディナーセットを頼まれたことがあります。

父が亡くなったあと、貿易関係の仕事をしていた兄とともに輸出用の雑貨類を扱う会社を起こしました。注文をうけた品物をそろえ、貨客船に積み込むため着岸場所までリヤカーで持っていきます。大半の貨客船が午後4時の出航でした。朝早くから荷を梱包するために材木にくぎを打ち、送り先や荷の中身を示すマークを刷り込み、3時までに船に積み込めるよう運ぶ、というのが日常でした。アメリカなどへ輸出していたのは京都・西陣織のネクタイなど、日本オリジナルが多かったですね。荷の中にはサンプルも入れておき、現地のディーラーが大きなトレーラーで北米各地をまわり、移動展示会をして注文をとってきます。その数などを指示されて、商品を取り寄せ、荷造りし、船に積み込む。これが兄と始めた織田商店の仕事でした。

織田商店として雑貨類の輸出を手がけながら、兄と私と福島邦典さんとで婦人服を扱うようになりました。三人とも、自称おしゃれ好きな道楽者ですから、気があった。福島さんは絵が達者で、アメリカの雑誌を見ながらネクタイやシャツなどのデザインをスケッチし熱心に研究していました。商売をしている間に米軍将校や有名人がお客さまになっていき、洋装品への注文も増えていったからです。とはいえ、戦後の統制下ではまだ洋装品を自由に扱えなかったので、こわごわ商売をしていたというのが本音です。そのうち、紳士服も手がけるようになりました。

ブルーと白の細いストライプ柄、オーソドックスなボタンダウンシャツは、生地を織り、裁断・縫製したオリジナルです。さまざまな斜めの模様が織りなすレジメンタル柄のネクタイなども、東京のシャツ専門店、紳士服店でも当時は扱ってなかった商品をいくつも作りました。いまのポピーの始まりでした。出入りする外国人のお客さまが紳士服づくりの先生のようなものでした。センスの良さに刺激され、その着こなしにも憧れたものです。私はその当時作ったボタンダウン、レジメンタルのクラブタイを自分のスタイルと決めてずっと今日まで着ているんです。兄もそうでした。自分のスタイルを一年中変えませんでした。

ポピーという店名も、お客さまとの関係から生まれました。織田テイラーとかいう名前がまずは浮かびますけれど、店によくいらっしゃていたアメリカ兵軍曹の出身地がカリフォルニア、州花はポピーだと教えられてこれに決めました。

腕のいい仕立て職人とともに、財界で活躍する方たちのオフィスやご自宅を朝のうちに訪ね、その場で採寸しシャツやスーツを作り上げることもしました。ポピーの紳士服に袖を通し、着心地の良さを実感したいただいた方がまわりの方に紹介してくださる。呼ばれて仕立てを頼まれる。そんなときがありました。財界人や有名人が避暑に向かう軽井沢に店を出せばもっと知られるようになるとアドバイスをくださったのも、このころ贔屓にしていただいた方でした。

クリフサイドをはじめ、たくさんあったダンスホールによく遊びに行ったものです。夕食を済ますと、これといってすることがない。じゃあ踊りに行こうか、というわけで、毎晩のように繰り出していたこともあります。ダンス専用のシューズも作ったほどです。

人間、年を重ねれば若いころが懐かしくて、いい時代だったと口から出てくる。ある面、仕方のないことかもしれませんが、私は気に入ったスタイルを発見し、着こなす楽しみを横浜に出てきて、ポピーを始めて知ったと思っています。ポピーをご指名くださる男性は、足元から頭の先までファッションの筋が一本ピッと通った方ばかりでした。こだわりのあるお客さまにいい加減な商品は売れない、作れない。自らにそう言い聞かせてポピーを続けてきました。

愚痴に聞こえるかもしれませんが、いまの男性、世代に関係なくネクタイをご自分で選べる人が少なくなりました。おしゃれとは自分の好みをしっかりつかんで、着こなす過程を楽しむことです。自分の着る服を奥さん、恋人のいいなりで選ばないでほしい、と思います。

【このほかお話しいただいたこと】

  • ・織田商店として輸出雑貨を扱っていた当時、日本郵船を代表する貨客船だった氷川丸は北米航路の定期船でした。円/ドルのレートが1ドル360円でした。
  • ・氷川丸は一時期、赤煉瓦倉庫前の埠頭を専用の着岸壁として使っていました。
  • 赤煉瓦倉庫前の埠頭には線路が引き込まれていて、皇族の外遊ではお召し列車が入ってきていました。横浜港先の東京湾上で、日本海軍の艦観式が行われ、見物に行ったことがあります。
  • ・日中戦争が始まったのは1937年7月でした。翌8月に召集を受け、金沢の第九師団に配属されましたが、栄養失調で脚気を患っていたのがもとで帰されました。
  • ・戸籍を横浜に移したのち、昭和15年に再招集を受けました。近衛大隊の配属になり、軍用列車で広島へ。広島からは輸送船で上海に着きました。租界華やかかりしころの思い出もたくさんあります。
  • ・黄河を遡った中国大陸の奥地で終戦を迎え、捕虜生活を過ごした後に復員しました。元町は焼け野原から復興をしていたころです。兄が元町に留まっていて、進駐軍の兵隊相手に京都などから取り寄せた日本製品を売っていました。
  • ・吉田橋周辺にあったかまぼこ兵舎の米兵相手に、焼け残ったビルを使ってキャバレーを開きました。私の兄とヒル薬局の石川さん、喜久屋の石橋さんの三人だったと思います。生麦までビールを取りに行き、氷を入れた浴槽で冷やす。店で出す食品は、米兵と親しくなって結婚していった日本女性が持ってきてくれたのを使いました。
  • ・元町のゴルフ好きが集まったMGCの発起人の一人が私の兄でした。多摩川河川敷のコース、湘南カントリーなどへよく行っていました。現在の根岸森林公園にもコースはありましたが、GI専用でした。
  • ・VANをつくった石津謙介さんもポピーに視察に来たと記憶しています。
  • ・指揮者でエッセイもお書きになる団伊球磨さん、英国留学された三笠宮殿下など著名な方の紳士服も仕立てています。
  • ・省線に乗って銀座に行き、数寄屋橋で映画を観て帰ってきても1円あれば充分でした。伊勢佐木町のオデヲン座には毎週のように封切りを観に行っていました。映画のプログラムはファッションを勉強するのにいい教材でした。

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