横浜元町ヒストリー

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横浜元町ショッピングストリート



05 お客さまを迎え、家族の世話をして 木村ふさ

木村ふささん

夫のあとを継いで店に立つ

私は二十歳で主人の元に嫁いできまして、40歳からお店に立ち、たくさんのお客さまを迎えていました。戦後間もなく、主人を亡くしたのがお店に立つきっかけだったんですが、育ち盛りの一人息子を見ながらお店を切り盛りしていくのは、それは大変でした。まわりに相談相手がないまま、90を過ぎるまで店をやってきました。

ミナト貿易という貿易商を営んでいた主人のあとを継いで、おもにアメリカへ輸出していた刺繍入りのシーツ、ピローケース、ベッドカバーやバスローブなどを並べて売りました。腕のいい刺繍職人がその当時は何人もいて、お店に通ってきては刺繍をしていきました。山手界隈に住む外国のお客さまには、繊細できれいな刺繍が大層人気を集め、よく売れました。独自の模様や色使いだったからでしょうか、和服にみられるような「キムラオリジナルの手作りの刺繍」といえば多くの人が知るまでになりました。野澤屋、高島屋といった百貨店に商品を卸していたこともあるんです。米軍にもいくつかの商品を納めていたと思います。

貿易商から小売へ商売を代えたのはいいんですが、商品の輸出入に必要な書類を、タイプライターを使って英文で作らなくちゃいけない。これがまた一苦労でした。主人の書類づくりを観よう見まね、うろ覚えでキーを叩いて、やっと作る、という日が続きました。いまの店(元町2丁目・ブティックミナト)は、元町通りに面してちょっと奥まった形にショーウインドーがあります。ご覧になるとわかるんですが、天井が高くなっています。お話しした刺繍入りの商品を扱っていた当時、外国のお客さまが大半なので、その方たちの背丈に合わせて作った名残です。

いっとき、輸出用の絵画、版画を店内に飾っていたこともあります。 画商のような仕事をして新進作家の作品、無名の作家の作品を探してきては展示して外国からのお客さまにお土産にどうぞ、とすすめていました。版画は、作家から版を借りて自分で刷ったこともあります。客船が華やかだった時代、大桟橋に船が着くと、観光客はタクシーに乗って元町へ買い物にやって来ました。刺繍製品と並んで絵画や版画の人気も高かったんです。 2階まで売場にしている店は元町でも珍しいほうでしたが、絵画や版画を並べるとなると、どうしても場所が必要になるんです。

洋行、銭湯、嫁いでいったお手伝い

元町の仲間が集まって、ヨーロッパへ商店街の視察に行ったときは、それは楽しかったです。洋行が珍しい時代に、50人近い団体で一週間近くパリやローマ、ロンドンなどを回ったんですからねえ。参加した女性のみなさん、それぞれに自慢の和服を持っていきまして、レセプションでお披露目し、それは好評でした。

ホテルから外出したときです。生まれて初めての外国の街です。勝手がまったく分かりません。そこで歩いた道のところどころに小さな紙を貼っておきまして、帰りはその紙を目印にしてホテルにたどりついたのを、よーく覚えています。

昔、元町には各丁目ごとに銭湯がありました。仕事を仕舞って来た家具職人や大工などが男湯にあふれ、女湯にもまちの仲間が集まってきました。脱衣所や洗い場がまちの社交場のようなものでした。八百屋も魚屋もありました。日々の暮らしには何一つ不自由することはありませんでした。まち全体が、一軒の大きな家のようなものでした。元町のはしからはしまで顔のわかる人たちが住み、どこそこの娘が嫁いだ、子どもが生まれたなんていうことをみんなが知っていました。

店を兼ねた住まいには内風呂があり、トイレも早くから水洗式でした。お店が忙しいので、お手伝いさんを2人、置いていました。職人の娘さんでした。13歳で新潟から出てきて、食事の支度や洗濯や掃除など家事の一切を任せていました。行儀見習いをして大きくなっていき、年頃になってうちから嫁いでいきました。息子一人だった私には、実の娘のようなものでした。いまも元気な便りをくれます。

もうすぐ100歳になります。古い顔なじみはずいぶん少なくなり、すっかり変わってしまいました。若かった頃の余暇はありません。仕事一筋でした。主人を早くに亡くしましたが、残された土地、家、店、信用をここまで守ってきたのが私の誇りです。 息子が一人なのに孫は2人、曾孫は4人、家族にも恵まれています。

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