横浜元町ヒストリー

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横浜元町ショッピングストリート



07 陶器店として再出発できたのは 宝田和七郎

宝田和七郎さん

タカラダを、おしゃれな陶器を扱うお店とご存じの方は多いと思いますが、前身は明治15年に東京・江戸川から出てきた宝田信太郎が三丁目(現 タカラダ)に創業した西洋家具店「宝田家具製作所」です。開港後の横浜は「関内」と呼ばれる地域に商館や銀行などがあり、山の手に外国人が住んでいました。そうした方たちを相手に商売を始める店が集まり、いまの元町の基礎ができあがっていった。洟垂れ小僧だった私は、両親からそのように聞かされて育ってきました。山の手に住んでいる外国人は、坂を下りていけば燃料、家具、パンなどが手に入るので買い物は元町で済んでしまう。元町の商店も、いいお客さまがついて商売が明るくなる。互いにメリットがあったんでしょうね。

大正時代になりまして、宝田家具製作所では電話を入れました。番号は2局の2013番です。親父に聞いた話では局番に続く「20」は中区を示し、「13」は中区で電話を入れたのが13軒目という意味ではないか、ということでした。息子たちにやりくりを任せてからお店に立っていませんから、自分の店の電話番号が思い出せないのに、昔のことはよーく覚えているんです。

山の手に住んでいた外国人は、関東大震災で壊滅した横浜を捨て神戸に移り住んでいきました。大正天皇の崩御とともに昭和の時代を迎えると、金融恐慌から不況が一機に加速していきました。満州事変、上海事変と続き、戦局は先が読めません。元町の通りから人の姿が減っていき、家具ばかりか洋装品さえも売れなくなり、商売に大きな打撃を与えました。戸棚の中の古い物を整理したとき、宝田の満州支店の名刺が出てきたんです。名刺の住所には「満州国奉天市春日町○○番地」と書いてあったと思います。乳業会社にソーダ水製造器を納品していた関係で、大陸に進出したその取引先にも同じ製品を納めるために拠点を設けたのかもしれません。ほかにもお得意様の要望に応えるため、満州に事務所を構えた元町のお店がありました。とはいえ、時代は満州事変が起こる少し前、事務所を開いていたのも1年足らずだったんでしょう。

先の戦争は悲惨でした。元町の仲間の多くが出征していき、いのちを落としました。宝田の身内にも戦死者が出ました。中国・山東省へ歩兵派遣された私は昭和19年に戻ってきましたが、本土空襲は時間の問題でした。20年5月の横浜大空襲で、中心部は2時間ほどで焼け野原になりました。8月には長崎、広島に原子爆弾が投下され、そして終戦を迎えます。元町の商売仲間は箱根に一家で疎開したり、東京に行って空襲で焼け出されたり、いろいろでした。占領軍が進駐し、元町周辺はアイケル・バーガー中将が治安維持などに精力を注いでいました。バラックとはいえ、元町の表通りは店が並び始めていました。そしてある日、宝田の隣で相撲回しの刺繍など高価な商品を作っていた人が東京で戦火を生き延び、物品を持って行くから宝田さんの店先で売ってくれないかと相談してきました。衣類、食料、焼酎何でもあり。値段を付けて持ってきて、売れたら儲けは折半でいい、というのです。喜んだのは私たちのほうです。人と人の信頼は、戦争で消えてなくなるものではなかったんです。

こうして戦後、日用品や雑貨を扱う店として商売を再開しました。終戦からしばらく経つと、瀬戸からも陶器を売ってほしいと一昼夜かけて電車に揺られ、商品をもってくる人も出てきました。東洋陶器(現 ノリタケ)の関係者でした。米一升が10銭程度の時代に、本格的なボーンチャイナのコーヒー茶碗が1客1円50銭、6客揃いで9円という値段です。ところがこれでも売れた。なぜかといえば、進駐を終えて本国に帰国する米兵が、日本土産に陶器を買っていったからです。元町の宝田にはいい陶器がある、という評判が本牧の駐留地にも届きまして、将校や一般兵向けに食器、陶器を納めるようになっていきます。いまのタカラダの基盤が作られました。

朝鮮半島で戦争が始まり、特需が元町にも及びました。このときはハワイ生まれの日系二世が米軍の調達窓口にいて、遠征先の将校、兵隊に必要なあれやこれやを私の店にも大量に注文してくれました。母が英語ペラペラでしたので、二世の兵隊も親しみを持ったんでしょうかね。紙ナプキンだけで一度に何万枚も注文が来まして、それをまとめて持ってこいと平気で言います。そんな突飛な注文ばかりが続くのでトラックを買いましたよ。免許は持っていませんでした。買ってから取りに行ったんです。元町で最初か、あるいは2台目だったと記憶しています。

忙しかったと言えば、港に出張店舗のようなものを開いたことがあります。東京でオリンピックが開かれた年、客船の停泊地が横浜大桟橋だったんです。フランスやイギリス、アメリカから船が着くたび、たくさんの外国の方が上陸してにぎやかでした。オリンピックの開かれた前後、わずかの間でしたが桟橋の入り口に店を構えました。観光みやげに陶器を買っていってくれました。元町の他のお店も忙しかったんじゃないかな。ユニオンさんは、米国船から注文を受けて大量の物資を納めていました。陶器や食器は私の店から調達していました。

震災、戦争、そのあとの時代もいろいろありました。元町の人たちが、まるで一つの家族のようなときもありました。そのころを知っている私には、ちょっと最近は寂しい思いです。

【このほかお話しいただいたこと】

  • ・宝田家具製作所を始めたのは、宝田信太郎。私は三代目。四代目が良一です。
  • ・伊勢佐木町の不二屋、もともとは元町の宝田の裏にありましたが、震災で焼けて引っ越したんです。
  • ・元町140年史、99ページの写真、このころ私は小学校一年、洟垂れ坊主でした。
  • ・兵役から戻った昭和19年、元町は商売どころじゃなかった。多くの店が閉まったままでした。宝田も職人が一人二人といなくなり、両親だけでした。しかし、商人である以上、何かを売らなくては ならない、食べていなかければならない。家具職人として図面が描けたので、近くの造船所に仕事の口を見つけて通いました。
  • ・横浜大空襲で店も住まいも焼けてなくなりましたが、両親が磯子に住まいを購入していて焼け残ったためそこへ一家で移住しました。元町の店跡には連絡先を書いた立て看板を差しておきました。
  • ・戦時中、山手の丘の上のフェリス女学院のグラウンドには、海軍航空隊の高射砲が設置されていました。
  • ・戦後しばらくは食糧難の時期が続きましたが、東京湾をはさんで千葉の富津方面から農家が米などを小船に積んで売りに来ました。米が一升10銭、一斗升で1円前後。一俵買っても2円程度だったと思います。
  • ・山手の外国人宅へ品物を配達する使い走りをしていたころ、母は「山手の69番地へ持って行きなさい」としか言いませんでした。住んでいる外国人の名前よりも、洋館のある場所でお客さまを覚えていたんです。
  • ・相撲回しなどの刺繍を手がけていたのは後藤さんといいました。
  • ・代官坂にクリフサイドができたのは20年代半ばでしょうか。第二京浜国道も開通していたので東京から映画監督、俳優、女優がよく来ていました。私たち地元の人間は、クリフの2階で遊びました。1階はダンスホールとテーブル、2階は一つのテーブルを一人のボーイ、女給が担当して歩合の収入を 得ていたようです。
  • ・クリフわきの元町隧道は戦時中、軍の備蓄庫代わりに使われていました。そこから物資を運び出し、 トラックで八王子方面へ運ぶ手伝いをさせられた思い出があります。

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