2024年(令和6年)9月5日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!
モトマチのフェニックス 〜不死鳥の翼に乗って〜(17)
〜 いつの世も旅は道連れ 〜
近年、季節の移り変わり方のバランスが崩れて来たように感じます。 猛暑熱波の関係で春と秋が実質的に短くなってしまった事が原因ではないかと実感する今日この頃、その感じ方が問題なのですが、近年はコロナ禍の影響で自粛されていた各種のイベントが一気に復活した結果、季節が活発に動き始めたかのように錯覚し、それが季節の移り変わりが早くなったと思う根拠になっているのではないでしょうか。
そんな季節の中で、人生で何か大きな忘れ物をして来たような感ずるわけですが、それは「季節の時差ボケ現象」が原因である事は確かで、これまで過ごして来たそれぞれの時代の記憶の連鎖が部分的に入り組み過ぎて、言わば「本当の時代ボケ」現象に起因している事は否定出来ません。
※ 「時差ぼけ」にもいろいろある現代、その解決方法は人それぞれ。 人生を有意義に過ごす為にクリアな頭脳を維持しなければならないが、その手段・方法は人それぞれ。 工夫次第で多岐に存在するーーー。
旅をした際の経験や種々の感動と共に、特に大失敗をした想い出は今になると大変貴重なものに転嫁していることが多く、もし、同じ季節の同じ時間に、もう1度その場所へ訪れた場合、一体何をどう感ずるのかに非常に興味があります。 多分、同じような失敗や感動はないものの、全然、別のものに興味が湧いたりするのではないかと思う次第ですが、例えば、同じ映画を続けて2度観ても面白いものは面白いし、見損なった瞬間が多々あったことも理解出来るわけですが、新たな感動がプラスされることは確実で、旅もそれと酷似しているのではないかと思う次第です。
※ いつものルートを季節を違えて楽しむのも良し、知らない道を一人で黙々と歩むのもまた良いもの。日々が旅の途上にあると思えば、人生の味わい方も違ったものになりそうな気がするーーー。
大切に心に仕舞い込まれている楽曲も同様で、同じ曲でも感じ方が日々違うわけですから、時代を違えて聴いた同じ曲から得られる感情は千差万別な筈。 特にライブの場合は一曲毎に聴いている皆の雰囲気や心の中に芽生えた感情に共鳴しながらステージが一体となって進行されて行くので、瞬間、瞬間が命の息吹となり、旋律自体が感動の連鎖となって音を紡いで行くので一体感が倍増致します。
日本には、古くから「同行ふたり」という言葉があります。 例えば、お遍路さんになって四国巡礼のひとり旅の途上でも、弘法大師がいつも傍(katawa)らに存在しているが故に「同行二人」と言い表すのが常で、これは中学校の古文の教科の中にも出て参ります。
※ バリ島ヌサドゥアの村で見つけた観音菩薩は母の若い日の写真の顔に似ている。 後年、月の砂漠を征くキャラバンを描いた平山郁夫さんの絵に心が騒ぎ、誂えた駱駝のピンバッジの置き場所にもなっているーーー。
若い時代に親友を誘って出かけた四季折々の山歩きや川遊び、そして、寺社巡りから日本を飛び出し、アジア、アメリカ、ヨーロッパへと旅への興味が倍増して人生の大きな転機を貰いました。 それは思いつきのひとり旅だったり友人を誘っての記念旅行であったりいろいろですが、20〜30年を経過してから振り返ると、団体旅行の様な人数の場合も個人旅行の場合でも誰かと一緒の「ふたり旅」だった事に気が付いた瞬間がありました。
それは旅を通じて同一人物が日々を同行してくれているのではなく、その瞬間ごとに種々の入れ替わりがあって、その都度、違う会話が為されていたわけですが、その折々こそがまさに「二人旅」。 弘法大師と行く「同行二人」にも似て、最後までひとり旅で無かった事は確かです。
旅には、無意識ながら感性に共鳴してくれる誰かが、その場のその瞬間に登場してくれる事が多く、それこそが、旅をする者を旅に誘う原点かも知れないと思う今日この頃です。
「旅は道連れ、世は情け」。 旅で道連れのあることが心強いのと同様に、人生ではお互いに情けをかけ合って生きて行くことが大切と説いています。 つまり、知らない土地を旅する際にお仲間の存在が重要なのと同様に、人生でも触れ合う人には慈愛溢れる気持ちを持って助け合うことが大切と言うこと。
気が付いた事をコラムに書き留めて新しい季節へ飛び出す心の準備と致します。
Tommy T. Ishiyama