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2024年(令和6年)6月5日号 元町コラム

横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

モトマチのフェニックス 〜不死鳥の翼に乗って〜(11)
〜 かつて存在した乗合馬車で往時の横濱散策を楽しみたい 〜

 乗合馬車(Noriai-Basha)、なんと牧歌的でのどかな響きなのでしょう。 

 乗合馬車とは、横浜開港を機に日本にやって来た外国人によってもたらされた紛れもない西洋文明の一つで、1870年(明治3年)ごろに描かれた錦絵には吉田橋付近を行きかう人々と共に、乗合馬車、荷車、人力車などの風情が賑やかに描かれています。

※ 3代目 歌川広重(Utagawa-Hiroshige / 1842〜1894)による「横浜吉田橋馬車道之図」(3枚組 / 江戸東京博物館所蔵)には、晴れやかに賑わう横濱関内&関外の交流基点としての吉田橋界隈の風情が巧みな技法で描かれているーーー。

 乗合馬車とは不特定多数の顧客に対して、時刻表に沿って定められたルートで運行される馬車の事で、高価な運賃を要するいわばセレブリティ御用達の高級な乗り物。 現代のイメージでは新幹線のグリーン車や、航空機のファーストクラスに乗って移動しているようなリッチな気分で利用されていました。

 居留地37番館(現在のホテルニューグランドの裏付近に存在)のサザランド商会(後のコブ商会)によって事業化された乗合馬車は、横浜のみならず近隣の住人の交通手段として定着し、後年は東京まで4時間で運行されるなど広範囲な活躍を見せていました。

 主なルートは、馬車道の名称の起源となった吉田橋ルートを初め、東神奈川を起点とする綱島街道旧道を六角橋から綱島まで走っていた記録がありますので、現在の東横線の沿線をほぼ網羅していたものと思われます。

 後に、成駒屋(Narikoma-ya)として乗合馬車事業に参入した下岡蓮杖(Shimooka-Renjyo / 1823〜1914 日本最初の写真家など)は2頭立て6人乗りの乗合馬車で莫大な利益を叩き出し、新橋、横浜間の鉄道が開業する1872年(明治5年)まで、多くの人々に愛されて活躍しました。



※ 時代物の時計にも想いを馳せたい。 乗合馬車とは趣を変えて、3頭立て2人乗りの馬車はロールスロイスやフェラーリ並みの超高級車と同じ、元町の谷戸橋から続く山手の居留地までの急坂も一気に駆け登っていた事だろうーーー。

※ 楊州 周延(Yousyu-Chikanobu / 1938〜1912 )『欧洲管絃楽合奏之図・後期』。  周延は江戸末期から明治時代の美人画・風俗画に優れた才能を発揮した浮世絵師。 絵の細部に歴史を彷彿させる時代模様が盛り込まれている。(神奈川県立歴史博物館・丹波コレクション)ーーー。

 文明開化を象徴する鉄道・洋風建築などの明治らしい風景画や、時代を作り上げた人々の肖像画など、錦絵・浮世絵などの著名な絵師による名品は文明開花を果たした明治期の日本文化の様子を見事に現代に伝えています。

 特に「横浜絵」(Yokohamae)と呼ばれている江戸末期から明治初期の風情溢れる浮世絵様式は、「横浜浮世絵」、「ハマ絵」、「横浜錦絵」とも呼ばれて、その多くは江戸の版元による出版でしたが横浜を画題として描かれた錦絵の総称として有名です。 主に横浜港、居留地の商館群、異人の風俗や街の風情が巧みに描かれていて、往時の人々が肌で感じた異国の風を現代に伝えています。 乗合馬車そのものの存在も遠い時代の遺物として忘れられようとしている昨今、馬車道や関内といった言葉の起源にその歴史の深さを思い、風情あるヨコハマを、日々、大切に見守りたいと思います。

Tommy T. Ishiyama 

 

 

 

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