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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
過去のアーカイブは順次公開してまいります。どうぞおたのしみください。

2020年(令和2年)2月5日号 元町コラム

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その19

横濱の地名が日本の歴史に初めて現れた日

ここに2枚の古い絵葉書があります。

後に彩色されたと思われるこの写真に写っているのは、現在の元町のメインストリート、元町中華街駅方面とその突き当たりにあった増徳院で、現在の横浜市中区元町1丁目にある元町プラザ付近の当時の姿です。ほぼ同位置に建て替えられ、元町に残されている薬師堂は境内の左端にあって堀川河岸の石積みがそのまま御堂の土台になっていました。絵葉書の写真の文字に「(横濱)元町海龍山 増徳院」と読み取る事が出来ます。

この増徳院が歴史上、公に初めて登場するのは黒船が再来した1854(嘉永7)年、ペリー艦隊ミシシッピー号の若き乗組員だったロバート・ウィリアムズ二等水兵(24歳)がマストから転落して死亡した事件の際で、彼の埋葬場所を求めたペリーの要望であった「海が見えて艦隊からも良く見える場所」に幕府が応えた形で、横浜本村にあった増徳院の境内の一部が提供されました。葬儀の列は村中を葬送のドラムを打ち鳴らしながら行進し、住民達は皆、家や店から飛び出して見送ったわけですが、この一件が「横浜外国人墓地」の発祥の由来となりました。

大同年間(806年 – 810年)創立以来の古い歴史を持つ本村(元村・元町)増徳院は関東大震災で全焼してしまいましたが、1928年(昭和3年)に南区平楽に再建され現在の元町に残っているのは1972年(昭和47年)に再建された前述の薬師堂のみとなっています。

※山手の丘続き、、横浜市南区平楽

広い境内を有する現在の海龍山増徳院と遠く時代とともに元町を望む旅姿の弘法大師

また、明治8年、三致学舎と明衛学舎が合併して増徳院の境内に移転した元街学校は、現在、山手町36番地に横浜市立元街小学校として歴史を刻み続けていますが、場所柄、3世代で同じ小学校に通ったというご家族や国際色豊かな生徒が多数集い、その人気とともに大変趣のある横濱らしい雰囲気を保持しています。

増徳院の境内だった外国人墓地も時代の変遷と共に大きく発展し、現在は40カ国以上、4900人を越える外国の皆さんが眠っていますが、お墓のデザインも宗教も千差万別で、ユダヤ教ならばダビデの六芒星や燭台がモチーフにされていたり、イスラム教ではコーランの文言が刻まれていたり、また、日本文化に傾注して日本的な形のお墓を建てて戒名まで刻ませている外国人の方もおり、墓所の開放日には、全国津々浦々から観光客の皆様にも訪れていただくなど賑やかです。横濱に縁を得てビールの大量醸造をはじめたコープランド、生麦事件の被害者リチャードソン、シドモアの桜で有名な女性ジャーナリストのエライザ・シドモア、日本の鉄道の父と呼ばれたエドモンド・モレルなど、横浜を創った人々が多数眠る外国人墓地は、特に、幕末を描いた大河ドラマなどがTV放映されている期間は来場者も多岐にわたり、墓所としても、また、史跡としての価値も高いエリアになっています。

本村〜元村〜元町を、そして、発展する横濱〜横浜の変遷を見守ってきた増徳院は、今日も鎮(Shizu)かに平楽の丘に佇んでいます。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

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