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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
過去のアーカイブは順次公開してまいります。どうぞおたのしみください。

2020年(令和2年)220日号 元町コラム

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その20 

元町公園を真下に臨む山手の丘陵から〜
歴史の時を刻む掃部山へ、、。 

山手丘陵の上空から熱気球に乗り込んだつもりで飛び立ち、北北西に真っ直ぐ、風に乗って低く滑空して行くと、まず、代官坂上空を通過し、元町ショッピングストリートのキタムラ本店とタカラダ(寳田商店)さんの中間あたりを過ぎて、やがて横浜スタジアムにさしかかります。今年も熱戦が期待される球場の電飾スコアボードを見下ろしながら更に直進すると、左眼下に伊勢山皇大神宮が見え出し、そして、「神奈川奉行所」があった紅葉坂の青少年センターを横目に、県立音楽堂を通り過ぎると掃部山(Kamon-yama)に到着です。

近年、敷地内に横浜能楽堂が出来るなど周囲が整備された掃部山公園の現在は、ランドマークタワーを筆頭に、林立するMM21のビル群が至近の距離で目に飛び込んで来て圧巻ですが、かつては横浜港の出船入船が一望できる格好の展望エリアでした。現在も、横浜市内の小学校は勿論、神奈川県下の小中学生が遠足などで訪れ、また、春の桜見物の伝統的名所として人気を集めています。

 林立する現代の高層ビル群の向こう、、
開港された当時の横濱港を望む掃部山の井伊大老が
明日の横浜を見守っています。

 筆者が幼い頃より慣れ親しんだカモン山は、江戸時代まで不動山と呼ばれて、近隣の住民と横濱の景観を愛する人々の、四季折々の遊山の地として賑わっていましたが、明治になって鉄道山と名前が変わります。日本初となる新橋驛(汐留)と横濱驛(桜木町)間の鉄道を敷設する計画が持ち上がり、エドモンド・モレル等の外国人鉄道技師の宿舎をこの不動山に構えたのが鉄道山呼ばれ出した理由ですが、鉄道開通後も、こんこんと噴出する湧き水が鉄道用水として利用されました。

 その鉄道山が掃部山(かもんやま)と名を変えたのは明治17(1884)のこと。

 横浜開港に尽力し、「桜田門外の変」で波乱の生涯を閉じた彦根藩藩主、大老・井伊掃部頭直弼(Ii Kamon no Kami Naosuke) の遺徳を偲び、その記念碑の建設のために旧藩の有志がこの鉄道山一帯を購入したことが掃部山と名前が変わるキッカケとなりました。 そして、紆余曲折の末に建立された井伊掃部頭の銅像も、騒乱の日々に身を置いて権勢を振るった井伊大老の生きざまと同じく苦難の日々を送ったのです。初代・井伊掃部頭像は、1909(明治42)、井伊家の嫡孫・井伊直忠により建立されましたが、完成直後の除幕式から一悶着ありました。「日米修好通商条約の調印を命じた井伊掃部頭は、開国の恩人か、それとも勅許(天皇の許可)を得ずに施策を強行し反対派を弾圧(安政の大獄)した国賊か」などの歴史的評価をめぐる激論が巻き起こったのです。

 

威厳ある像の高さは12尺(3m60cm)。
井伊大老お気に入りの「正四位上左近衛権中将」の正装を身に纏っています。

冬枯れの日本庭園に黄色の可憐な花が色を添えて、。
毎年8月に開催されている「虫の音を聞く会」は、
伝統芸能や茶道に通じた文化人である井伊掃部頭を偲び、
1965(昭和40)年から行われている風流なイベントです。
空襲によって焼失した公園がようやく緑を取り戻したことを祝って、
掃部山の愛護会で企画したのが始まりだと言われており、
尺八や琴の音に耳を傾けながら お茶を楽しむという趣向や、
ボンボリを灯し、秋の虫を放つなど、
今年も掃部山の情緒を雅に堪能させてくれる事でしょう。

 さて、銅像の苦難はまだ続き、かつての政敵であり徳川幕府の大老でもあった井伊直弼に対する明治政府の元老たちの反発から、像の除幕式は当初の71日から延期を余儀なくされ、711日にやっとの事で開催されました。式典には大隈重信らの出席を見ています。敷地はその後、大正3(1914)に井伊家より横浜市に寄贈され、同年に「掃部山公園」として開園しました。 

また、大正12(1923)の関東大震災で、園が壊滅的な打撃を受けた際には銅像の倒壊は免れたものの重い台座が25度も傾き、また、第二次世界大戦中の昭和18(1943)には金属回収のために像が撤去されてしまうなど、現在の像は2代目で、昭和29(1954)の開国100年祭に際して保土ケ谷区天王町在住の鋳造家、慶寺丹長父子に横浜市が依頼して復元鋳造されました。あの日のように、今日も湧き水が枯れることなく東側の麓から鉄道山時代を彷彿とさせるように湧き出しています。

 

「井伊直弼と横浜 特別展」
神奈川県立歴史博物館にて (202028日~322)

 関東大震災の炎で、掃部山の名物だった八重桜の木は大部分が焼失してしまいましたが、掃部山一帯は救護地となり、多数の避難民のバラックが建てられたという記録も残っています。倒壊を免れた像の存在は、避難民たちの間で話題になり「倒れてなるものか」と建ち続けている姿は、皆の心の支えとなりました。樹木の植え替えが行われ、掃部山が再び公園としてよみがえったのは1927(昭和2)のこと。復興に際して、民間の土地、約6642平方メートルを横浜市が買収し、規模を拡大させての再出発となりました。

 横浜開港の原点となる「日米修好通商条約」を締結させた大老・井伊掃部頭直弼が横浜を見守り続けている今日、折しも馬車道にある神奈川県立歴史博物館では「特別展 掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜」が開催されています。

 遠い日も昨日のごとく蘇る歴史的遺産の数々、、。
横浜山手の丘に立つと、いつもの遠い横濱が見えて参ります。 

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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