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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
過去のアーカイブは順次公開してまいります。どうぞおたのしみください。

2020年(令和2年)3月5日号 元町コラム
【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その21

霞たつ3月弥生の空の下、今日も横浜元町に歩調を合わせるように、堀川が中村川から受け継いだ清らかな流れを横浜港へと運んでいます。

そんな昼下がり、県名について記録しておこうと思い、整理したところ、その「神奈川」の名前の由来は「神奈河郷」に起因していて、地名として最初に歴史に登場するのは中世の鎌倉時代まで遡るに至りました。

1266年(文永3年)5月2日、元寇と言われるあの元の襲来を2度にわたって阻止した鎌倉幕府第8代執権、北条時宗の下文(くだしぶみ)、つまり命令書に「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河両郷、、」とあるのが初見で、当時、神奈河郷(かながわごう)が相模国鎌倉の鶴岡八幡宮領であったことが記されています。

その神奈河郷とは、後の時代に神奈川宿(じゅく)や神奈川湊(みなと)と呼ばれるに至る神奈川町(現在の横浜市神奈川区の南部)を中心として、その周辺を含む一帯だったと推察され、現在の横浜市西区の北部、浅間町や岡野、軽井沢といった横浜市内を流れる帷子川(かたびらがわ)の北岸一帯をその範囲に含んでいました。

ところで、「カナ」が付く地名はどれも「カネ」から変化したものであることは『古代地名語源辞典』等で明らかになっていますが、その「カネ」は漢字で「曲」と書き、「かながわ」は「かねがわ」の変化で「曲がりくねった川」を意味する事から、この川は神奈河郷の西端を流れる帷子川(かたびらがわ)である事が容易に想像できます。つまり、湾曲した帷子川が流れる地の北岸にあった郷なので「神奈河郷」、まさに、現在の神奈川の地名はこの帷子川に由来していたのです。


※東海道随一の賑わいを見せた神奈川宿。
多くの歴史的人物が行き交い、この高台から
横濱の美しい入江を堪能した事だろう、、

その後、神奈河郷という地名は使われなくなり、代わって室町時代あたりから登場するのが「神奈河(神奈川)湊」という地名で、更に、江戸時代に進むと東海道の宿場町として「神奈川宿」が設置され、宿場町・港町としての意味合いから「神奈川町」と一般的に呼ばれるようになりました。


※静かに佇む記念の碑に、現在の横浜駅西口一帯が
「袖ヶ浦」と呼ばれていた海だったことがわかる、、

令和2年、西暦2020年の現在、日本には47の都道府県が存在していますが、北海道や愛媛県・沖縄県などの例外を除いて、多くの都道府県は県庁所在地となっている都市名または所属する郡名が都道府県名として多く採用されています。命名当時からの県庁が移転して現在はそうではないところもありますので、あくまで命名当時の話ですが、しかし、神奈川県は県庁所在地の都市名である「横浜」や、古くからの所属郡名だった「久良岐(くらき)」は一切登場しませんでした。

なぜ?と不思議になりませんか、。

率直に言えば、幕末の横浜開港時のいざこざが、明治時代の県名設定に大いに影響したおかげで「神奈川」が登場したわけで、この県名にこそ、開国・開港の苦労が秘められています。

幕末の1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船が浦賀沖に来航し開国を要求します。実は、長崎・出島で唯一交易を許可していたオランダから世界の詳細な情報を得ていた幕府は、ペリー来航の4〜5年前に、米国が日本に来るらしい事と、米国の捕鯨事情や清国との交易の際の船の寄港地を模索していた事情などを察知しており、それなりの覚悟をもって下準備がなされていたので、よく、テレビドラマや映画で演じられる程の大騒ぎは幕府の上層部にはなく「来るべきものが来た」との覚悟で冷静な対応が実践されました。

その翌年、1854年(嘉永7年3月3日)には日米和親条約を、更に1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結されるとアメリカ側は大喜びで碇泊中の旗艦ポーハタン号から祝砲を16発も打ち鳴らすわけですが、朝廷などの一切を無視して独断で条約締結を決行した大老・井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)には論理的な裏付けがあり、それが1615年頃に幕府と朝廷との間で取り交わされた「公武法制応勅18箇条」でした。

その第2条にはこうあります、「政道奏聞(せいどうそうもん)に及ばず」。つまり「天皇家、公家、更に諸大名の全てを幕府が支配し、政治的な決定に際してはいちいちお伺いをたてる事なく決行する」と言うもので、それを武器に井伊大老は独断を実践したわけです。これこそが筆頭老中としての大老の職務権限であり、幕府の権威の服権を意図していた事は言うまでもありません。


※英壱番館(ジャーディンマセソン商会)も利用し、
坂本龍馬と勝安房守(かつ あわのかみ=海舟)を
逗留させた人気割烹旅館「さくらや」を引き継ぎ、
老舗割烹「田中屋」が令和の世にも君臨している、、

さて、この条約によって翌年6月の横浜港の開港に至るわけですが、開港場所についてはややこしい話に発展します。米国代表ハリスは神奈川(現 横浜市神奈川区)を開港することを強く希望します。一方、幕府は江戸に近い商都である神奈川開港は絶対的に避ける方針でした。神奈川は東海道の主要宿場「神奈川宿」であると同時に大きな港町「神奈川湊」として繁栄し、幕府にとって重要都市だったからです。

そこで幕府は神奈川に近い漁村の横浜村(現 横浜市中区)を整備して新たな港町を作り、そこを開港場とすることを画策します。しかし、ハリスの米国側も譲らない為に幕府はある策を思いつきます。条約上の「神奈川」というエリアを拡大解釈し、当時の神奈川湾(横浜湾)の沿岸地帯も「神奈川」と称し、その神奈川を開港するとして条約を締結し、その上で「神奈川の一部だから」との詭弁で横浜村を開港するという作戦を組み上げます。この作戦によって幕府の思惑通り、条約に合致した形での神奈川開港を実践した事になりますが、実際は横浜村に新地を作り開港を実現したのです。

しかしこの影響で一つややこしい問題が発生します。開港した横浜港およびその港町を管轄する役所が必要だった わけですが、条約上、神奈川湾沿岸を「神奈川」としているため「本来の神奈川」であった 神奈川宿・神奈川湊の外にその役所があっても「神奈川」を名乗る必要が生じました。

こうして設置された役所が神奈川奉行所で、同奉行所は3つの役所からなり、神奈川奉行所会所を神奈川宿の一部だった橘樹郡(たちばなぐん)青木町(現在の横浜市神奈川区)に、神奈川奉行役所を久良岐郡(くらきぐん)戸部町(同 横浜市西区)に置きその通称を戸部役所と言い、そして神奈川奉行所横浜運上所を久良岐郡横浜町に設置したのです。

その後、1868年(慶応4年)4月11日に明治新政府は神奈川奉行所を廃止。神奈川奉行所横浜運上所の地に横浜裁判所を設置。また戸部奉行役所の地に出先期間として戸部裁判所を設けますが、数日後の同月20日に横浜裁判所は神奈川裁判所に名称を変更します。わずか数日での改称騒ぎに当時のいざこざの大きさを想像する事ができます。思うに横浜裁判所を設置直後、先の条約の「建前」が重要であることを指摘された新政府が慌てて「神奈川裁判所」に改称したことが見え見えの事件でした。

さらに同年6月17日に府藩県制と呼ばれる廃藩置県の前段階的な地方自治制度が制定され、これを受けて「神奈川府」が設置されると旧神奈川裁判所が役所に。1868年(明治元年)9月21日には神奈川府が第1回目の神奈川県に改称されます。しかしこれは府藩県制下の県のため現在の神奈川県とは別のものでした。

その後、1971年(明治4年)に廃藩置県が実施された関係で、同年7月、最初に設置された神奈川県を母体として、廃藩置県の新制度下における新たな神奈川県が再度設置されました。県庁は旧神奈川県と同じく横浜に設置され、この第二次神奈川県が、近隣の県との統合などで範囲を拡大させて現在の神奈川県となります。

久良岐郡(くらきぐん)横浜町は横浜区を経て横浜市に、橘樹郡(たちばなぐん)神奈川町は周辺と合併して明治34年に横浜市に編入され、また、昭和10年に横浜市に行政区が設置されると、旧神奈川町を中心にした神奈川区が誕生します。つまり、神奈川県の地名の由来となった本家本元は区名として現在に存続しています。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

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