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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)5月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その26
                             
  〜高島嘉右衛門さんの事 その(3) 〜

      江戸後期から明治にかけて、横浜に大きな足跡を遺すことになる高島嘉右衛門(幼名 清三郎)が生まれたその翌年の天保4年(1833年)、父親の薬師寺嘉兵衛(Yakushiji Kahei)は、自らの遠州屋を成功させ、材木商として盛岡南部藩をはじめ、多くの各藩江戸屋敷の普請や営繕に勤しんでいました。

      そんなある早朝、南部藩江戸屋敷から勘定奉行と江戸留守居役等が血相を変えて遠州屋に飛び込んで来たのは、国元からの早飛脚で知った冷害と、その救済依頼の相談の為でした。

        冷害によるその惨状は大飢饉を予想するには充分過ぎる程甚大なもので、対応に苦慮する嘉兵衛や重臣たちには事の重大さは充分に自覚できるものの、それが、後に歴史に名を残す事になる「天保の大飢饉」に発展する大災害になる事は知る由もありませんでした。

        現在も、板橋の乗蓮寺に供養塔が残る天保の大飢饉は、江戸後期の1833年(天保4年)に始まり、更に1835年から1837年にかけて再大規模化した飢饉で、それは実に1839年(天保10年)まで続くことになる江戸四大飢饉のひとつになるなど、被害が拡大するわけですが、その主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害が元凶で、その被害の度合いは東北地方が最も大きかったと資料に残されています。

東京大仏で有名な、板橋 乗蓮寺にある天保大飢饉供養塔。

 全国に点在する天保飢饉供養塔のひとつ。
曹洞宗 東秀院、仙台市若林区新寺の供養塔。 

        遠州屋嘉兵衛の機転と巧みな交渉術によって、深川の老舗割烹「尾花屋」での相談に端を発した佐賀鍋島藩の米、三万石の収穫から積み込みまでの一切を、嘉兵衛が自ら取り仕切る事を余儀なくされると、仮の南部藩江戸詰勘定奉行の地位を拝命して佐賀に乗り込んでいったわけですから、万が一の時は死ぬ覚悟だった事がよくわかります。 

        然るべき格式の仕度を整えた侍姿の嘉兵衛は凛々しく、誰もが南部家の血を引く旧家の侍と思う程で、加えて選りすぐりの遠州屋の手代も、南部藩江戸屋敷からの同行武士と遜色のない風情で江戸を後にしました。 

        側から眺めれば、一行はそれなりのレベルの大名遊山の旅の風情でしたが、約1ヶ月に及ぶ江戸から佐賀への道すがら、重圧を背負う嘉兵衛の日々は大変な辛苦であった事でしょう。

        途中、京都で1泊した一行は、嘉兵衛が日頃より信仰している北野天満宮に参詣し、道中の安全と祈願の米の入手と、その、奥州盛岡までの無事の回送を祈願して、一句を献上しています。 

        〜 八百万(Yaoyorozu) 神の恵みの宝船
                      救いたまへや 大洋(Wadatsumi)の原 〜 

        当時の船は帆船で、最大なものでも千五百石積みですから、これから刈り入れする3万石の米を運搬するには数十艘の船が必要になります。そして、その船団の全ての米を、岩手盛岡に無事に届けなければならないわけですから、嘉兵衛の胸中に去来するものは想像を絶するものがあった事でしょう。 

        肥前鍋島藩(Hizen Nabeshima Han)、現在の佐賀県佐賀市。357千石の鍋島城下では50騎の家臣が整列して出迎えるなど、嘉兵衛一行の緊張も最高潮に達したわけですが、各方面の挨拶を済ませると、その足で仕事に取り掛かります。船の手配など、諸問題の数々を迅速にこなして行く嘉兵衛の数十日に渡る滞在は、鍋島藩家臣も大いに眼を見張る働きの連続で、皆、「さすが、名門南部藩の奉行職、家柄の良さが漂い、仕事裁きに一瞬の無駄もない」と感嘆します。 

        あっと言う間に数十日の滞在を終え、伊万里港で積荷を終えた最後の一艘、千二百石積みの竜神丸が玄界灘に向かって進む姿を見送った嘉兵衛は、げっそりとやつれ切ってはいたものの、目は鋭く輝き、米を一粒たりとも残すことなく、目的地の石巻港へ届け、、との祈りと気合いに満ち溢れていました。 

        それもその筈で、正米三万石の代金は11万両。江戸を後にして今日までの2ヶ月の間に米の相場が天井知らずの大暴騰を遂げているにも関わらず、鍋島藩は当初の約束通りの取り決め額を提示しており、頭が下がる思いながら、支払い代金の都合がつかない南部藩一行は、嘉兵衛の大芝居で「江戸からの貴藩の書状に、支払いは江戸表にてと書いては御座らぬのか?」とトボケ切ったわけですから、大したものです。 

        鍋島藩としては、大騒ぎとなり重職会議が頻繁に召集されたものの、嘉兵衛の見事な働きぶりを見て感心しきりの鍋島藩重臣、井上三郎兵衛は、江戸まで早飛脚で問い合わせをという幹部達の意見を抑えて、「人はまず人間を信じてかかるべきであり、嘉兵衛殿はまさに信ずべきお方である。後日、殿からのお咎めがあった場合は、一切の責務はこの井上が負うゆえに、この話は、このままにして事にあたろうぞ」と、嘉兵衛個人を信用して英断したわけで、嘉兵衛一行が佐賀を発つ日は、次の宿場町・轟(Todoroki)まで、家臣50騎による丁重な見送りで賑わったと記録にあります。 

        後日、この時の事を嘉兵衛はこう述べています。 

        「一切の責任を取って、腹を切る事は簡単だったが、それらの米が、無事に南部藩へ到着したかどうかの知らせを聞いてからにしたかった」と。

   現在の東京、京橋三十間堀 界隈。
遠州屋があった1丁目から3丁目付近の近影。 

        嘉兵衛一行がやっとの思いで江戸にたどり着く頃になると、南部藩から「宝船到着」の知らせが続々と舞い込みます。運命の最後の一艘となった竜神丸も波乱の航海を乗り切ったわけですが、下関から瀬戸内海に入った竜神丸は、紀州灘を通過して伊豆、大島圏に入るや、折からの大嵐に見舞われ、羽生(Habu)の港に逃げ込んで難を逃れます。その竜神丸の直後を帆走していた二十余隻の他の船はことごとく難破・沈没している事から、嘉兵衛は自らが関わった事による運の強さと、神々の加護を思い、夜を徹して感謝の祈りを捧げました。 

        ひと粒の米も無駄にする事なく、3万石の米俵を石巻港(Ishinomaki)で北上川の河船に積み換えると、後は勝手知ったる盛岡までの道程を残すのみ。しかし、一世一代の賭けに出た嘉兵衛には、まだまだ、「江戸表にての支払い」との虚偽を押し通した鍋島藩への米の代金11万両が、一層重く、双肩にのしかかって来るのでした。 

        記録によれば、この年の飢饉で、隣の秋田藩では20万人余の餓死者が出たとあり、それに反して、南部藩での犠牲者は皆無に等しかったと記されています。また、当時の日本の推計人口は1833年からの5年間で1252000人減少しており、人口減少幅の規模としては、当時から遡ること50年前の江戸中期に起こった天明の大飢饉に匹敵する大規模なものだったと伝えられています。 

        餓死を免れようと密かに蝦夷地へ渡る者が増え、箱館(現 函館)方面の人口が増加した記録も残されていますが、本州より渡来した者は、一時的に保護され、1人につき米1升、銭200文を与えて国元へ帰らせるという対策などもとられましたが、密かに住み着く者も多々存在しました。 

        江戸京橋三十間堀、遠州屋嘉兵衛、「その父にしてこの子あり」と後年言われるようになる清三郎(高島嘉右衛門)は、自宅、遠州屋の奥座敷で、まだ満1歳に満たないまどろみの中で何を思っていたのでしょうか?     (続く、、) 

Tommy T. Ishiyama

 

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