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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)6月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その27
                〜高島嘉右衛門さんの事 その(4)

        商売というものは「信用第一」とよく言われます。それは、お客様からある日突然に賜るものではなく、永い永いお付き合いの上で培われて来た「信頼」と「時間」の蓄積があって、そこで初めて言える言葉だということを今は亡き元町の先人諸氏から、若き日の筆者は伺いました。 

        江戸後期、天保の大飢饉が始まろうとしている折り、近江屋(薬師寺)嘉兵衛による南部藩救済の為の米の調達は、まさに死を賭して、佐賀鍋島家への代金11万両の現地払いの約束を反故し、その交渉を江戸に持ち帰る事で一時しのぎになったわけですが、鍋島家家臣団の目前で見事な采配を振るいながら仕事に奔走している嘉兵衛が得たものも、その一途な人柄と仕事ぶりから皆に生じた信用でした。 

        佐賀から、急ぎ江戸へ舞い戻った嘉兵衛は、幼な子、清三郎(後の高島嘉右衛門)の眠る顔も見る間もなく南部藩江戸屋敷に飛び込むと、手配した全ての米俵が無事に南部に到着した旨の報告を受け、数十万人の人々の命が救える確信を自らの涙で確信するや、その足で鍋島藩江戸屋敷へ直行しました。

   通りがかりに眺めた史跡碑。京都にて、、 

        折から、江戸に滞在中の第10代肥前国佐賀藩主・鍋島 直正(Nabeshima Naomasa・後に斉正 Narimasa)は、将軍徳川家斉(Ienari)18女・盛姫(孝盛院)との婚姻を控えている若き逸材でした。話を取り次いだ鍋島家御用人、成富助左衛門に導かれて半刻、中庭の白州の上で手討ちを覚悟して待つ嘉兵衛は、佐賀で必死に手配した正米3万石を積み込んだ船団が南部へ船出して行く勇姿を見送った日々が遠い昔の事のように思えました。 

        出座した殿様の「直答を許す、面(omote)をあげよ」との一喝から始まった問答は、微に入り細に渡るこれまでの経緯や嘉兵衛の行為が、この夏に捕縛され処刑された「鼠小僧次郎吉」の犯行に酷似しており、一見、善行に見えるが罪には何ら変わりがない事を告知され、控えていた城代家老・井上三郎兵衛に手討ちを指示したのでした。 

        もとよりの覚悟で、西方を向いて座り直した嘉兵衛は目を閉じて「南無、、、」と小さな声でお題目を唱え、南部藩の関係者にだけは、これ以上、災いが及ばない様にと願い出た先刻の言葉を心の中で繰り返しながら、長い時間、その瞬間を待ち続けていました。 

        嘉兵衛が長く感じた時間は、もしかしたら、一瞬の事だったのかも知れませんが、やがて、藩主・直正が屋敷中に響き渡る声で「あっぱれ!」と叫ぶや、「そなたの真の心を見極めたり、、我が家来にそなたのような者を是非、欲しいものじゃ」「驚かせたことを許せ。人は最後の瞬間には醜くも本心をさらけ出し、他責を吐露するものであるが、嘉兵衛どの、、そなたの心情には一点の曇りもなく感服致した。南部屋敷の皆もさぞ、心配している事であろう。さ、さ、、早くご家来衆の元へ、、」。白州に泣き崩れていた嘉兵衛を優しく促す直正でした。 

        夢から醒めたように南部屋敷に舞い戻った嘉兵衛を待っていたのは死装束姿の3人の重役達でした。嘉兵衛の奇蹟的な無事を喜び、涙で迎えた皆は、嘉兵衛の後を追うつもりで遺書を認(Shitata)めており、そこにはこれまでの嘉兵衛の働きの全てと感謝を殿様に報告するとともに、南部藩として恩に報いるせめてもの手段として、生後間もない嘉兵衛の嫡男、清三郎を士分に取り立て願いたい旨が記されていました。

高野山奥の院にて、、南部家墓所。 

        この年、佐賀は空前の大豊作が見込まれており、357千石の鍋島家にとっては南部藩への貸し出し米の3万石はその1割にも満たないことから、予測している増収分を割り当てたとしても充分と判断していました。直正は、恵の豊作分で南部藩60万人余の命を救うのもまた良しと、内々の相談では南部に無償で3万石を提供しても良いと判断していましたが、南部の立場も考えて、どんな申し出も鍋島としては快く了承するつもりだったのです。従って、嘉兵衛が懇願した「米代金の長期年譜払い」が難なく了解された事は言うまでもありませんが、その報告を受けた南部家臣は、生きて無事に帰ってきた事に加えて、嘉兵衛が最後の最後まで南部の事を思って、そこまで交渉していた事実に声を上げて泣き崩れたのでした。 

        この事件は幕末の各藩の歴史上、他に類を見ない美談として、「南部藩史」と「鍋島藩史」の双方の公式記録として残されています。 

        「九州に鍋島あり、鍋島に閑叟公(kansou kou)あり」と後に呼ばれるようになる肥前国鍋島藩の名君・鍋島直正が天保元年(1831)17歳で藩主の座について4年目の出来事でした。「閑叟」とは号で、直正は実直に藩政を導き、後に反射炉を築いて銃砲の製造に着手するなど、九州きっての雄藩を築き上げました。 

        大きな恩を拝した南部藩と鍋島藩の絆は強固な同盟以上の交流に発展し、後年、鍋島が被る窮状を、今度は、南部がお返しとして救済に尽力する事になるわけですが、その場には既に嘉兵衛の姿は無く、その子、高島嘉右衛門が奔走する事になります。 

        嘉兵衛は功績により、南部藩から80石の家禄と永代士分待遇という立場を授与され、南部と鍋島の両家に一層深く関わりを持つ様になるわけですが、嫡男、高島嘉右衛門にとっても、この父の生き様は自らの人生に影響がない筈はなく、生涯を通じて大きなビジネスチャンスを獲得するに至ります。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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