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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)9月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その33
                      〜高島嘉右衛門さんの事 その(10) 〜

  令和2年、夏の首都圏に、7月に次いで再び「火球」が出現したのは、旧盆も過ぎた8月21日の夜の事でした。

        関東各地から、巨大な流れ星の目撃情報が相い次ぎ、港区竹芝に設置されたカメラの午後10時半の映像には、白っぽい光を放つ火球が落下していく様子がハッキリと写っていました。

        天変地異やコロナ禍とは無関係な自然現象であることは解っていても、現代の世相を象徴するような、何かの暗示的な出来事のような錯覚を覚えた皆様も多かったのではないでしょうか。

※FNN プライムオンラインより
落下して行く火球を竹芝桟橋の情報カメラが記録していた。   

    さて、遠州屋嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)が火の玉(火球)を目撃してから2年と6ヶ月が経過した1855年(安政2年10月2日)、後に「安政江戸地震」と命名される大地震が発生します。現代ならばM7に匹敵する規模の南関東直下型地震でしたが、当時の一連の群発地震の中で、世に言う「安政の大地震(oh jishin)」と言うのはこの地震の事を意味しています。

        初めて火球を見て以来、この2年余の間、不吉な予感に苛(saina)まれていた嘉兵衛が、後の大正関東大震災に勝るとも劣らない前代未聞のこの大地震に遭遇したのは万世橋の上で、商談を終えた本郷から京橋への帰宅途中の籠の中でした。

        「してやったり、、、、」

        嘉兵衛のこのひと言は、これまで、流星を見たとか釡が鳴るとか、特に江戸の魚屋に鯰(namazu)が多く並ぶようになったことから、得意の占いから凶事を悟り、信用厚い鍋島藩に莫大な借金をして材木を買い漁っていた読みが見事に的中した事を意味していました。その額、なんと一万両(概算で1億5千万円〜2億円)、、驚くべき洞察力です。

        鯰と地震の関係は現代でも研究が続行されていますが、当時の江戸の人々は、「霞ヶ浦の淵には大ナマズが潜んでいて、それが暴れると大地震がおこる」と冗談交じりながら半分信じており、事実、香取神社の要石(Kaname ishi)によって平静が保たれていると、多くの参詣客で賑わっていました。

        死者20万人とも言われている大地震は、活気あふれる江戸の町を、瞬時に壊滅状態に追い込んだのです。

        万世橋の上で、嵐の大海原で寄せ狂う荒波の中に居る小舟のように揺れる籠。その中から転げ出た嘉兵衛が見たものは、塀や障子が微塵に砕け飛び、ガクガクと叩かれたように大揺れする民家群が、続く第2波の鳴動とともに将棋倒しに全壊する光景でした。

        普段は望めない江戸湾の大海原が倒壊した瓦礫の向こうに、真近に大きく広がっていることに嘉兵衛が気が付くや、点在して燃え上がっていた火が一気に拡大して、江戸が大きな炎で包み込まれて行きます。そして、瞬時に覚醒したかのような嘉右衛門の脳裏を過(yo)ぎったのは、買い占めておいた材木群が天井知らずの高騰をみることへの実感でした。

※重要文化財・寛永寺旧本坊表門(黒門)。
松坂屋がある現在の上野広小路4丁目付近は、
同門由来の「黒門町」と呼ばれてつい最近まで風情があった。

※威風堂々、、、。
往年の風情を現代に伝える旧寛永寺 五重の塔。

        筋違見附(sujikai mitsuke)の万世橋(mansei bashi)の上で地震に遭遇したことは嘉右衛門の幸運のひとつでした。1676年(延宝4年)に竣工した筋違橋(suji kai bashi)まで遡(saka nobo)るこの万世橋は、徳川将軍家が寛永寺に詣でる際に必ず通る橋で、当時の位置は、現在の昌平橋と万世橋の中間にあり、将軍家を大いに意識した堅固な橋でした。すぐ南に筋違見附があった事から、橋そのものが見附の付属物であり、厳重に管理がなされていたのです。

        また、江戸城から北東の鬼門にあたることから徳川家によって造営されたのが寛永寺でしたから、山号は「東叡山」。つまり、京の都の、北東の鬼門を守る比叡山に習って、「東の比叡山」という意味あいから名付けられたから「東叡山」だったわけですが、徳川家光を開基とするこの名刹「東叡山寛永寺」は、現在の上野公園全山を含む膨大な一帯が当時の寺領で、多くの善男善女の心の拠り所となっていました。

        何処かの屋敷に居たら梁の下敷きになっていたかも知れない嘉右衛門は、その幸運を江戸城を鬼門から守るルートの線上で得られた事に感謝すると、早々に帰宅するや迅速に奔走を開始します。

        結局、材木商の商売の根本は普請仕事を取ってくる事ですから、出資元の鍋島藩江戸屋敷は勿論、全壊した南部藩江戸屋敷の新築工事を五万五千両で請負い、商売も順風満帆に見えたものの、そも直後の台風の来襲で、石巻からやっとの思いで買い付け、蓄財しておいた木材が深川の材木置場から全て海へ流出した結果、嘉兵衛には更に数万両の借金が残ったのです。

       乱高下の激しい人生の本格的な幕開けを迎えたようなそんな失意の中、1858年(旧暦安政5年)の横浜開港に合わせて、今度は鍋島藩から嘉右衛門にお声が掛かります。名産品の伊万里焼の商いを横浜でやってみないかとの打診でした。

        その経営を嘉右衛門に任せたいという佐賀・鍋島藩が、結果として嘉右衛門と横濱のご縁をとり結んだのです。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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