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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)9月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その34
                      〜高島嘉右衛門さんの事 その(11) 〜

      2代目遠州屋嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)の大博打を打ったような商売の栄枯盛衰は世の人々の格好の話題になりました。

      嘉兵衛は、大地震で倒壊炎上し、焼失した鍋島藩の江戸上屋敷、中屋敷、下屋敷と家来用の住居家屋300棟の工事を請け負い、その前渡金として得た金1万両(約10億円)のおかげで、手付けを払って売買契約を交わしていた全ての材木の残金を調達する事が出来たわけですが、地震の翌年1855年(安政2年)には南部藩からも5万5千両の工事を請け負うなどで2万両(約20億円)の利益が見込まれていた矢先、直後に来襲した猛烈な台風の江戸直撃によって工事終了間際の建築物群が倒壊し、その再建築を余儀なくされたほか、高騰していた全財産の材木が全て海に流失して莫大な負債だけが残るという悲劇に見舞われます。

      そんな失意のどん底で、もがき苦しんでいた嘉兵衛のもとへ、ある日突然、光明が差し込み新天地が開けるような話が持ち込まれます。

※毎度お馴染み、、。
ジャーディンマセソン社勤務当時からの筆者の人生の参考書。
石井寛治先生著のこの本には、ケンブリッジ大学図書館所蔵の
同社の膨大な資料から分析された数値記録が満載だ。

      鍋島藩の家老、田中善右衛門が訪ねて来たその用向きとは、明年、1859(安政6)年に国際港として開港する横浜に鍋島藩特産の伊万里焼の店を開きたいというもので、嘉兵衛にその店を任せたいという話でした。鍋島のほうにも嘉兵衛の窮状は耳に入っていたし、信頼厚い嘉兵衛を応援したいという意図と、嘉兵衛の手腕によって藩の財政に役立てたいという田中善右衛門自身の才覚がもたらした妙案でした。

      この話が出た安政5年(1858年)を期に、日本は明治という大激動期を迎えることになります。倒幕派の台頭、開国に伴う尊王攘夷思想の激化、大老・井伊掃部頭直弼(Ii kamon no kami Naosuke)の独断による日米通商条約調印、そして、それに反対する攘夷論者達への弾圧となる「安政の大獄」など、時代が激流のように渦巻いて行く事になります。

      続く、同年7月にはコロリ(コレラ)禍が江戸の町を席巻して多数の犠牲者が出るなど、大混乱のこの時期に、未来を見据えた田中善右衛門の外国人相手のビジネスという藩史にも残る卓件性から、嘉兵衛に白羽の矢を立てた事は注目すべき史実に他なりません。その田中善右衛門が嘉兵衛に対して提示した条件は、開店資金としての4千両の提供とその返済の長期年賦払いを認めるというもので、嘉兵衛にとって願ってもない好条件でした。

      これが、嘉兵衛が初めて「横浜」を意識した瞬間でした。

      嘉兵衛の、国際港としての新天地「横浜」に掛ける思い、未知の横濱で外国人を相手にしての新ビジネス。不安を覚える暇もなく、「困窮から脱する助け舟に違いない」と、この話に自分の未来を賭ける嘉兵衛でした。

※令和の現代、佐賀県伊万里市、伊万里川。
河口を見下ろす名品・古伊万里を模した歴史モニュメント。

※いつの日もいつの時代も未来を見つめる元町の不死鳥。
石川町側のゲートから真西を望むフェニックス「ジュピター」が今日も、。

      その嘉兵衛が安政6年(1859年)6月2日の横浜港開港の日に合わせて開店した店の屋号は「肥前屋」でした。伊万里焼を販売する鍋島藩の直売店のような存在ですから、他店と比較して品物も豊富で価格も安かったことから、外国人客のみならず日本人客も多く来店するようになり、大繁盛でした。

      ところが、この新店の繁盛ぶりが話題になるに従って、江戸と横浜の1日という距離感はあっという間に狭められ、多数の債権者達が金の取り立てに肥前屋を訪れるようになったのです。江戸でも評判が広がった結果でした。

      再起を掛けた新店の繁盛ぶりとは裏腹な暗い日々の中、嘉兵衛は思い悩みます。

      そんな、精神的にも限界を迎えていた嘉兵衛には、ふと気が付いた奇妙な事がありました。それが、罠ともいうべき新天地・横浜の甘い囁きだった事は知る由もない嘉兵衛でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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