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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)10月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その36
                      〜高島嘉右衛門さんの事 その(13) 〜

令和2年も10月の声を聞いたと思ったら早や20日。先週の水曜日14日は「鉄道の日」でした。 当時、横濱驛(Yokohama-Eki)として設置された日本最初の鉄道の駅は、現在、JR桜木町としてみなとみらいエリアの中心に位置して、先人たちの想像を絶するような進化を遂げています。

今年、その桜木町駅新南口に6月に開業した旧横濱鉄道歴史展示「旧横ギャラリー」では、148年前に鉄道が創業した1872年(明治5年)から新橋〜横濱間を走っていた歴史的遺産と言うべき「110型蒸気機関車」が展示されています。日本の夜明けを走り抜けた機関車を眺めながら往時を偲ぶのも圧巻ですが、午前8時から午後9時までの毎時ジャストに蒸気機関車の汽笛音が響く演出がなされていますので、鉄道ファンならずとも垂涎の明治気分を味わえること必至です。

※新南口に直結のJR桜木町ビル。正面が「旧横ギャラリー」だ。

※展示中の存在感あふれる110形蒸気機関車の復元車両。
「10号機関車」として1872年の鉄道創業時にイギリスから
輸入された蒸気機関車が新橋〜横浜間を白煙を上げて元気に走っていた。

※山手の丘に眠る英国人 エドモンド・モレル氏の
鉄道にかける情熱も今日の横浜発展の原点のひとつだ。

鉄道開通当日の記念乗車には、明治天皇をはじめ西郷隆盛と従道の兄弟、また、幕閣勝海舟等の政府高官と席を同じくして、高島嘉右衛門(嘉兵衛改め)が正装に身を整えて乗車していました。

生麦から横濱驛まで延々と続く野毛の浦を埋め立てた美しい海の中道を走る沿線は朝陽に輝き、その埋め立て工事の苦労を明治天皇にご進講する嘉右衛門の頬も朝日のような紅潮と充実感に満ち溢れていました。そして嘉右衛門の胸には民間人で初めて明治天皇から賜った正五位勲四等章が輝いていました、、、。

そんな後年の栄誉を得るにはまだまだ12年を要する時間を隔てて、後の嘉右衛門こと嘉兵衛が、大借金の返済の為とは言え、ご禁制の外国人への小判の密売という大罪を犯し、自ら呉服橋の北町奉行所へ自首して投獄されたのは29歳になった1860年(万延元年)の秋のことでした。

さて、、「当時の商人なら誰でもやっていた」という小判密売買のこの闇取引に、嘉兵衛がここまでのめりこんでしまった背景には借金でノイローゼ状態だった事に加えて若さもあったわけですが、鍋島藩肝煎りの自らの店、肥前屋の顧客でもあった首謀者のオランダ商人キネフラを介したこの闇取引は、足掛け2年、実質1年2ヶ月続きました。親しい取引仲間も何人か出来て、嘉兵衛がこの利益でいとも簡単に莫大な借金を完済し、ホッと一息ついたのがその年の10月のことだったのです。

お裁きの白洲の上で嘉兵衛が心に秘めていた事は、大量の小判を融通してくれた鍋島藩や関係先には決して迷惑はかけてはならないということで、全てを必死に取り繕い、弁明をしたものの罪は罪。嘉兵衛が投獄された先は、生きては出られないという恐怖の伝馬町の牢屋でした。

長い牢屋生活が、やがて嘉兵衛が大成するキッカケを与えてくれる事になるのですから人間の運命というものは不思議な縁の組み合わせの上に成り立っていることがよくわかります。

少し、紙面を拝借して述べておくと、、開港場の横浜には一攫千金の商いを夢みた商人たちがこぞって出店を試みたわけですが、開港翌年の1860年(万延元年)5月の日本人町の様子についての惣年寄名主の調査によると、生糸売込商93軒、絹物・ 緑茶・塗物・漆器等その他の売込商、洋織物の取引商90余軒、諸荷物運送業10軒、飛脚屋 2軒、旅館3軒を数え、そのなかでも中居屋重兵衛、甲州屋忠右衛門が際立ったビジネスを展開しており、両者はまさに幕末の横浜商人を象徴した「走り屋」と言われる冒険的商人たちでした。

中居屋は信濃上田藩の御産物方御用達や紀伊藩の産物方御出入を活用し、生糸売込商としてその名を馳せましたが、開業数年にして没落します。また、甲州屋は屋号が示すように甲州(八代郡東油川村)の出身で、実家は豪農で養蚕業を営んでいました。甲州屋の商いは中居屋ほど短命ではありませんでしたが、1870(明治3)年に勃発した普仏戦争の影響で1873年(明治6)年に横浜経済界から姿を消しています。

当時の横浜の貿易は、輸出品としては生糸・蚕種・茶などが中心をなし、輸入品は綿織物・毛織物・武器・艦船などでしたが、その当時の貿易形態は横浜に限らず、 日本人商人による直貿易ではなく、「居留地貿易」ないしは「商館貿易」と言われる外国人が介在しているものであったために、日本人商人の機能は問屋的役割を担う程度のものだったのです。

言わば生糸の売込商だったわけで、輸入商品を取り扱う場合は、商館が持ち込んできた商品を商館で引き取り、それを国内の商店や商人に売り捌く商行為に留まったので、彼らは「引取商」でもあったわけです。

そうした商いの形態は明治期に入っても続き、日本人商人は外国人商人の意向に従わざるを得なかったために取引の一方的な破約や不平等で変則的な商取引を強いられるのが常でした。しかし、不利益を被りながらも「走り屋」で象徴された横浜商人は、日本の生糸を世界の市場に送り出した「日本の売込商」であったことは紛れも無い事実でした。

明治期に入ると、横浜経済界に新しい形の商人が現出しはじめ、その代表的人物が原 善三郎であり、茂木惣兵衛でした。彼らは1873(明治6)年に設立された国立第二銀行の頭取・副頭取を経験していたので、幕末期の冒険的色彩の強い投機師的商人とは異なり、近代的合理性を有した商活動を模索したのです。そうした彼らの活動が明確になるのは1880(明治13)年5月の横浜商法会議所(現在の横浜商工会議所)の設立であり、翌年の 1881年に願書が出る「聯合生糸荷預所」設立の運動で、その「聯合生糸荷預所」は1881年に設立の運びになります。

それは外国人商人による生糸の不当な取引の排除を目的としていました。「聯合生糸荷預所」 (荷預所)が開設されると、その荷預所で生糸を保管し、検査を行い、見本による外国人商人と売買が可能になることから、日本人商人は従来の不利益を除去できると考えたのです。その結果、商人にとっては主体的な商いのはじまりになり、商権回復運動の推進にも結びつくことになるわけですが、それは紆余曲折の商取引形態を正当としてきた外国商人にとっては納得の行かないものだったのです。

実に、先人諸氏の緻密な努力こそ、着実に国際貿易港としての横浜が本格活動を開始し草創期を乗り切って行く原動力だったという事ができます。

そんな未来を知ってか知らずか、牢屋という狭い新世界の中で、嘉兵衛なりの必死の戦いの幕が下りたのでした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

 

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