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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2020年(令和2年)12月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その40
                    〜高島嘉右衛門さんの事 その(17) 〜

今年もクリスマスが直前に近づいて参りました。賑やかな、しかし、COVID-19防止に則している野外型元町ショッピングストリートの各所では、訪れる皆様に光のツリーが優しい光を投げかけています。

※元町ストリートで今年も大忙しのスタージュエリー サンタたち。

※満月の大空に向かって。

海側のフェニックスゲート、北極星を目指す「ステラマリス」に明日の希望を託して、筆者の今夜の行き先は、、何処のバーかレストランか、。

 思えば、遠い時代の横浜は東海道筋からは遠く、海の近くまで山々が迫っている孤立した平地の少ない寒村でした。半農半漁の横浜村は、半農とは言っても砂地なので水田が作れない為、周囲の各村と比較すると農業生産力はかなり低かったのではないかと考えられています。

ペリーに同行して横浜村を訪れた事がある宣教師ウィリアムズの当時の日記を紐解くと、「あまり繁栄しているようには見えない悪臭が漂っているショボイ村」と、辛辣(shin ratsu)な文字が並んでいます。従って、漁業に頼らざるを得なかったのは明白で、塩づくりがも盛んだったほか『横浜いま/むかし(横浜市立大学刊)』によると、海の幸の中でもナマコが最も重要な財源であった事が明確です。
当時の幕府は対中貿易の輸出品として、この大人気のナマコに焦点を絞っていたようで、1800年代初期には、お上からナマコ漁拡大のお達しがあるなどして村の一大産業となりました。村民はナマコを煮て乾燥させ、干しナマコとして江戸に出荷すると、それは中国貿易の窓口だった長崎を経由して中国に送られ、彼らの食卓に並んでいたわけですから、世界最大の中華街が現在の横浜にあるのは、食の歴史の上からも必然だったようにも思えて参ります。

そんな横浜が、現在は人口3,758,058 人(2020年8月1日現在) に発展し、全国の市の中で最大の規模となりましたが、これは都道府県で10番目に人口が多い静岡県に匹敵しているわけですから、ヨコハマは市というより「県」レベルの規模なわけで、当時の人々が現代に蘇ったら、さぞ、腰を抜かして驚く事でしょう。想像するだけで痛快な気分になって参ります。

さて、時代は、まだ1860年代の花のお江戸、、と言っても花とは無縁の浅草溜、伝馬町二番牢の中のお話しが続きます。囚人4人に嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)がコッソリ耳打ちされた話、それは思いがけない相談ごとでした。

脱獄の計画を立てた彼らは成功の有無を嘉兵衛の占いに図り、更に、より可能性のある脱獄の日時やその方法があれば、それを教えて欲しいという相談でした。死罪獄門が裁決されている首謀者4人は脱獄以外には打つ手がないと思いつめているだけに、無視すれば大事の前の小事とばかりに、血祭りにあげられる恐れもあった嘉兵衛にとって、それは恐怖極まりない迷惑な相談でした。

常識的に考えても牢からの脱獄は不可能だし、脱出できたとしても、頑丈な外囲いの門は突破できないばかりか、その外側にも、取り囲むように鉄砲を携えた多くの牢役人が厳重に巡回しており、更に、その向こうには一層高い塀囲いが行く手を阻んでいます。

少し想像しただけで「無理、無理、、、」と即答したい嘉兵衛はグッとこらえながら、千数百億個の脳細胞が電気信号を発しながら激しく交錯するのをそのままに、正解を導き出そうと必死の形相で天井を見上げました。

答えは出ているのですが、追い詰められた人間に常識論は通じるわけもなく、嘉兵衛自身がこの脱獄に参加すれば断首は確実。また、男たちの計画に反対すれば、この場でおさらばになる事は確実、、答は決まっているのに、発する言葉が見つからない嘉兵衛でした。

そして、必死で絞り出した言葉は、、

「みんな、少し落ち着こう、念の為に一占立ててみるから、」

時間稼ぎの苦しいひと言でしたが、この場にはドンピシャリの言葉を発した嘉兵衛は、更に時間稼ぎのために「中筮」(十八変筮法)と呼ばれる時間のかかる方法を意図的に採用して占いの準備にかかりました。

後項で高島嘉右衛門の歴史的な易断として少々触れる事になるその才能は、もって生まれた天性のものに加えて、自らを信じるが故の平素の努力が実を結んだものと言って良いと思いますが、号として名乗る「呑象」(Don Sho)も、あの勝海舟から「号を持ってはどうか」と勧められた折に、「どうしよう」から始まって、「どんしよう」という語呂合わせで付けられたという有名な伝説には信憑性があります。

また、職業的占い師のことを「易者」と呼びますが、高島嘉右衛門が易断に際して金品の受領は一切拒否していた事も有名です。従って、易に関して現在に続く嘉右衛門由来の縁者は皆無で、門下生も一切存在していない事をここに明記しておきます。

ところで、当たるも八卦~という言葉は、「占いは当たったり外れたりするから、話半分くらいに聞いておけ」とか、「当たろうが外れようが所詮は占いだから」という意味に使われていますが、実際は、「八卦=占い」ではなく、八卦とは、元来、天体や人体などに関するお互いの構成要素を表現したものであって、占いの要素は含んでおらず、言わば、天体から人体までをカバーする卓越した思想体系が八卦という事になります。なので、当たったとか外れた言うのは論外で、自分が導き出した「卦」が、一体、何の暗示なのかを森羅万象に照らして、いかに分析予測して答えを導き出すかが本筋であるという事を誤解の無いように記憶しておいて頂きたいと思います。

さて、その場逃れの嘉兵衛の占いの結果は実に奇妙なものでした。

もともと、時間稼ぎの為に占ったものですから、出た「卦」(ke) について考えるのは後回しにして、嘉兵衛は用意していた「脱獄の成功はない」という答えを恐怖に怯えながら発します。また、「自分が参加しないほうが成功の可能性が見える」など、苦心して組み立てた話法で必死に説明を繰り返すと、一瞬、殺気立ったものの、彼らはあっさりと嘉兵衛から離れて行きました。

脱獄を計画していることが明らかになった4人を隠れるように嘉兵衛が見張っていると、数日が経過したある日のこと、牢番に鰻や酒を注文している彼らが目に留まりました。金さえあれば不自由の無い牢生活、相場の数倍の手数料で何でも手に入るのがこの二番牢という特殊社会でした。

囚人4人は、竹皮で包むなどカモフラージュされて運び込まれた鰻や、熱湯を入れた行水用の湯を運ぶ桶に徳利を浸して燗酒を楽しむなど、人目につかないように手馴れた動作で飲み食いすると、金に目がない上機嫌の牢番に更に金を掴ませます。目的の髪用ハサミを都合2本差し入れさせると、人目につかないようにコッソリ分解し、桶の板を挟んで手槍に加工するなど、いつの間にか4本の武器を仕立て上げていることに嘉兵衛は驚かされます。

そして、脱獄計画が実行に移されたのは、昼の蒸し暑さが一層蒸し蒸しと残る文久2年(1862年)、8月18日の午後10時頃のことでした。

まず、新入りの囚人の入牢で開き戸が空いた隙に4人が牢番を蹴散らして脱走し、取り押さえようとした3人の牢番を手製の武器で一撃して外囲いの鍵を奪いましたが、しかし、解錠が出来ない。何故か? 牢屋のシステムとして、新入りを入牢させる際には外囲いの開き戸は内側から鍵をかけるのではなく、外から施錠するのが常で鍵の種類も違えた造作がなされていたのでした。

嘉兵衛を除く他の百数十人もの囚人も、全員、牢を飛び出し、鍵の開かない外囲い目指して一斉に雪崩れ込んで来たからたまりません。脱走を知らせる早鐘が響き渡り、銃声と叫び声が入り乱れる大混乱の中、嘉兵衛の姿が無いことに気が付いた首謀者たちは、嘉兵衛の裏切りで外囲いの開き戸が開かないように細工されたと、必死で嘉兵衛を探しますが見つけることが出来なかったのです。

夜が白み始め、牢内のうめき声が途絶えても役人達は恐れから誰ひとり入って来ず、全員が生き絶えるのを待っているかのような不気味さが漂っていました。

頃合いを見計らったような牢役人の声が、百数十人がそこにいたとは信じられないようにシーーンと静寂を極めた牢屋内に響き渡りました。

「誰か、、息のある者はおるか?」

かすかなうめき声がするのみで、、ハッキリと答えられる者が居ないと判断した牢役人がガチャガチャと外囲いの戸を解錠した、その時、、、。

「お役人さま、、副名主。嘉兵衛、生きながらえてここに居ります」

それは、役人たちが誰一人として想像しなかった、まさかの方向からの、ハッキリした嘉兵衛の声でした。(続く、、)

※鎮(shizu)かに元町の夜が更けて行きます。

来る2021年が皆さまの人生を飾る素晴らしい年になりますように、。心よりお祈りを申し上げて本年を締め括らせて頂きます。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

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