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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2021年(令和3年)2月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その43
                            〜高島嘉右衛門さんの事 その(20) 〜  

 振り返れば、薬師寺嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)の伝馬町牢屋敷での囚人生活が始まったのは、嘉兵衛が29歳になった万延元年(1860年)の事でした。

      順調だった事業の南部藩江戸屋敷建築など、工事の途中だった家屋が安政の大地震で全壊し、再建築による大きな損害を生んだばかりか、新たに背負った莫大な借金がかさみ、また、別途にあらゆる方面からの借財によって投資した材木が、江戸を直撃した大型台風による洪水で全て流失するなど、金銭的にも精神的にも絶望のドン底に突き落とされた22歳の嘉兵衛に助け舟を出したのは、信用という絆で結ばれていた佐賀鍋島藩の家老、田中善右衛門でした。

      安政6年6月2日(1859年7月1日)、まさに武蔵国久良岐郡(Kuraki-gun)横浜村の開港の日に照準を合わせて、「肥前屋」という鍋島藩直営の伊万里焼の店を開いた嘉兵衛は、内外の顧客を相手に再び大商いを成し遂げたものの、江戸から取り立てに来た債権者達の執拗な督促から国法破りの小判の密売に手を染め、足掛け2年、実質1年2ヶ月に及ぶ闇取引で得た利益によって、いとも簡単に莫大な借金を返し終わったのも束の間、密売の取り締まりも一層厳しくなった為、逃げ切れないと判断した嘉兵衛は北町奉行所に自ら出向いて、自首を敢行したのでした。

※1982年刊の初版本「The Thistle & The Jade」(アザミと翡翠)
ジャーディンマセソン商会・創業150年記念社史には
世界の同社事業所が関与した歴史的事件や逸話が掲載されている。
写真は嘉兵衛(高島嘉右衛門)の肥前屋があった本町通りの賑わいの図。

      投獄された嘉兵衛は、幕末の志士が牢に残したのであろう易経の本を牢名主から貰うと、勉強のかたわら自ら卦をたて、世の動きや囚人仲間の未来を占うなど、早くもその才能を開花させます。その的中率が高かったのは、嘉兵衛の持って生まれた才覚に加えて、商売で鍛え上げた分析力や洞察力が加味されていたからですが、同房の囚人や牢番の役人たちから「牢の中に居ながらにして外の世界の動きまで分かる不思議な男」との評判を既に得ていた嘉兵衛でした。

      世は幕末、嘉兵衛が伝馬町牢屋敷に投獄された2年目の秋のこと、、毎日たてる卦が不思議な兆候を示し、「天地がひっくり返る事件が起こり、混乱の日々が長く続く」と奇妙な暗示を得た嘉兵衛は、牢番と牢名主にそっと耳打ちをします。

「黒船騒ぎのような大混乱が江戸からそう遠くない何処かで起こる」
「しかも、それは長く続いて終わりが見えない」

      怯えた皆は、牢の隅にうずくまり、牢役人は姿を見せなくなったものの、一向に何も起こらないことから、嘉兵衛だって占いを外すことがあると、安堵の空気が流れました。しかし、嘉兵衛は易経を隅々まで眺め直しながら「すでに、もう、事件は起きている。刀や槍が全部同じ方向に向いていて入り乱れもしない、おかしな戦いぞ」と言い切ったのでした。

※JM商会に深い縁のあるスコットランドの国花「アザミ」、
そして清国(中国)圏の富のシンボル「翡翠 Hisui」がタイトルの
同社150周年記念社史初版本。(石山蔵書より)

※「The Thistle And The Jade」に掲載の江戸の浮世絵師、
早川松山(Hayakawa Shozan)作の「生麦事件の圖」。

      文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国橘樹郡(Tachibana-gun)生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)において、薩摩藩主であった島津茂久(忠義)の父で、最高責任者の島津久光の行列に騎乗したイギリス人複数が乱入し、供回りの藩士に斬殺される事件が発生しました。世に言う「生麦事件」の勃発でした。

      被害にあった英国人は4人。東海道経由で川崎大師に向かおうとしていた彼らは結果的に正面から行列に乗り入れた形となり、鉄砲隊も突っ切って久光の駕籠に急接近してしまった結果の惨劇でした。

      殺害されたのは、観光で来日中の上海の貿易商の英国人・チャールズ L. リチャードソンで、ただ一人、難を逃れたマーガレット夫人は自ら馬を駆って横浜居留地に駆け込み、重傷のマーシャルとクラークは流血しながらも馬を飛ばして、当時、アメリカ領事館として使用していた神奈川の本覚寺(臨済宗 青木山・本覚寺 横浜市神奈川区高島に現存)に救援を求めて、居合わせたヘボン博士の手当を受けるに至ります。

      一方、事件直後の久光一行は行列の速度を速め、横浜居留地の動向を探る為に農民姿に変装させた藩士2名を派遣すると同時に、宿泊予定だった神奈川宿を通過して次の程ヶ谷へ夜間遅く到着すると、翌早朝、神奈川奉行の制止を振り切るように京へ向けて旅立ちました。横濱の居留民らによる報復を危惧して、神奈川から出来るだけ遠ざかりたかったわけですが、そんな緊迫した状況は、随行していた藩士の一人、大久保利通の当日の日記からも詳しくうかがい知ることができます。

      時は、尊王攘夷運動の高まりを見せていた幕末の真っ只中、この事件の処理は大きな政治問題に発展して、そのもつれから勃発したのが、翌、文久3年7月の薩摩藩とイギリスとの間の薩英戦争でした。それは、やがて、大政奉還、王政復古など、徳川幕府の崩壊から明治維新へと日本の歴史を一気に塗り替えて行く起爆剤のような、象徴的な事件でもありました。

      嘉兵衛たちがこの事件を知るのは、2ヶ月後に入牢して来る新人の世間話の報告まで待たなければならなかったわけですが、生麦事件の顛末(ten matsu)は嘉兵衛が牢の中で予測した通りに、終わりの見えない国際問題に発展します。

      事件の翌年、文久3年(1863年)の年明け早々、幕府に圧力を加えるためにイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港すると、生麦事件の処理に関して全権を担ったイギリス外務大臣ラッセル卿の訓令がニール代理公使の元へ届きます。同年、2月19日、ニールが幕府に対して正式な謝罪状の提出と賠償金10万ポンドの支払いを、また、薩摩藩には2万5000ポンドの支払いと犯人の処刑を求めた結果、5月になって幕府はこれに応じたものの、薩摩藩はあくまで拒否を貫き通した結果、7月の薩英戦争の開戦に至ります。

      結果は最初から目に見えており、加えて、薩摩は20余年前にアヘン戦争で見せたイギリスの強大な軍事力を情報として把握しており、白旗を揚げるのは時間の問題でありました。

      その結果、最終的にイギリスが得た賠償金額は、幕府からの10万ポンド(40万ドル=30万両)に加えて、薩摩藩からは2万5千ポンド(10万ドル=7万5千両)となり、幕末当時のインフレ状況を加味して現在の貨幣価値に換算すると、30万両はおよそ90億円、また、7万5千両は22億5千万円と、それぞれ莫大な金額が動くことになります。

※上級な家柄を感じさせる高貴な佇まい。
JMグループの第一人者(総買弁)として実力を世界に轟かせた
ロバート ホー・トン卿 (Sir Robert Ho-Tung)。
写真は1915年にSir の称号を授与された際の勲章と、
世界の国々及び団体組織から贈られた全22個の勲章群。

※やや若き日のロバート ホー・トン(何 東)卿。
後にJM商会から実業界へ。名門「ホー(何)一族」の始祖となる。
昨年他界した香港・マカオの実業家で大富豪、カジノ王の
スタンレー・ホー(何 鴻燊 Stanley Ho 1921-2020)の
大叔父にあたる人物でもある。

      これらの賠償金の運搬と検算は、横浜開港と同時に進出を果たしていたスコットランド系の英国商社、ジャーディンマセソン商会(横濱 英一番館)本社の総経理、総買弁(コンプラドール) で、後の香港の名門[何東(Ho-Tung)財閥]の始祖となるロバート ホー・トン卿(Sir Robert Ho-Tung)が来日し、陣頭指揮を執ったとの記録が同社の歴史に刻まれています。

さてさて、風雲急を告げる幕末の日本。嘉兵衛にも遂に流刑地の佃島を出て自由になる日が近付いていました。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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