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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2021年(令和3年)2月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その44
                            〜高島嘉右衛門さんの事 その(21) 〜

 

    嘉兵衛(後の高島嘉右衛)の新流刑地となった佃島での日々は、一層の易学の研究時間と実践の場を得られた結果となり、生涯忘れられない充実の日々となっていました。

    嘉兵衛は易学を駆使して生麦事件を始めとする世の大事件の予知を始め、その研ぎ澄まされた精神によって、易占いという形で身近な者達の未来を好結果に変えて行ったわけですが、その延長線上で、嘉兵衛自身も占いという自らの力で再び自由を勝ち取る結果を得るに至ります。

    特に、伝馬町の牢で知り合った「勝郎」(Katsuro)との佃島での再会は恰好の話し相手を得た嘉兵衛に一層の活力を与えましたが、彼は、例の脱獄事件の前に伝馬町から佃島に牢替えとなっていた為に命を失わずに済んだ訳ですが、事件の一部始終を嘉兵衛から聞くに及んで驚愕に打ち震えると同時に、丁度、その同じ日に嘉兵衛の妻が、身ごもっていたお腹の子と共に他界した事実を聴くや、「旦那の身代わりにお成りなすった」と男泣きに泣き崩れるのでした。

    勝郎との四方山話(yomo yama banashi) で、お互いの罪状や法律の話に発展した際には、三瀬周三(Mise Shuzo 後に三瀬諸淵/Morobuchi)という罪人の話題に行き着き、自分たちの国禁を犯しての入牢流罪に対して、この三瀬周三の罪状が実にひどい話だった事が浮き彫りになりました。彼は有名なオランダ商館医のプロシア(ドイツ)人、シーボルトと姻戚関係にあってオランダ語と英語に堪能だった事が災いし、幕府が外交顧問だったシーボルトを解任したのに伴い、通訳をした周三も外交の内幕を知る人物としてあおりを食い、投獄され、人足の寄場(yoseba)で重労働を課せられていたのです。

※晩年のシーボルト博士。
日本研究で欧米列強に大きな足跡を残した。
日本追放となったシーボルト事件の発端、
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が持ち出されており、
開国を迫る黒船のペリー提督はシーボルトから日本について
詳細な教授を受けたその手には、同じ、地図が握られていた。

    また、一説には、当時、幕府とイギリス公使との間に外交交渉の必要が生じ、幕府側の通訳は福沢諭吉、福地源一郎(幕臣、後にジャーナリスト・衆議院議員)の二人。しかし、両名とも英文書物の翻訳のみだけが可能で、会話の通訳は全く不可能だった事から、三瀬と腹違いの兄弟であるアレキサンドルというイギリス公使の書記を勤めていた人物が交渉の難航ぶりに業を煮やし、公使に三瀬を紹介して通訳に当たらせた結果、全てが無事に終わった事が三瀬にとって災難となったと言うのです。

    つまり、当時の外交上の問題はすべて幕府が一手に対処し、民間人や諸藩が直接に立ち入ることは堅く禁じられていたのに加えて、通訳などの業務は幕府の許可のある者しか許されておらず、そこに三瀬がイギリス側の人間の紹介で参入して来た為に、これを怪しんだ幕府から厳しい取り調べを受ける結果を招いたと言うのです。

    三瀬の身分は宇和島(伊予国宇和島/現在の愛媛県宇和島市)の藩士で、厳しく詮議された宇和島藩の留守居役が、藩に迷惑がかかることを恐れて「三瀬という者は藩士の中には居ない」と偽証した為、身元不明者とされてしまった三瀬は即座に投獄され、この佃島へ送られて既に5年という歳月が経過していたのでした。

    その話を聞き、気の毒に思った嘉兵衛は、その三瀬周三に会う段取りを勝郎に依頼したのです。

    周三は石臼で油を絞る重労働を課せられており、人望も厚く世話役を任されていた嘉兵衛は自らの権限で周三を自分の側近として煎薬係りに任命すると、医家の親類だけあって見事な手腕を発揮します。心の芯もしっかりとしている周三に興味を持った嘉兵衛が、早速、運命を占ってみると、意味深い結果が提示されます。それは、現在のような状況に陥らなければ、三瀬周三も国の宝と言われるような重要人物として国家レベルの働きをしていた事が暗示され、また、同時に、放免の日も近いと嘉兵衛は易断するに至ります。

    その三ヵ月後、嘉兵衛の予言は的中します。時代の変遷は幕府の崩壊を予言しているかのように逆風を呈し、統制が効かなくなった幕府を横目に、各藩が独自の判断で行動を取らざるを得なくなった結果、語学に堪能な三瀬周三が必要になった宇和島藩はアレキサンドルの尽力もあって、藩主から下賜された大小の刀と紋服羽織袴を携えた使者が三顧の礼を持って迎えにやって来たのです。

    明治維新後、三瀬周三は複数のドイツ人医師を招いて大阪に医学校を創設し、近代医学の日本導入の橋渡しとなるなどの活躍と共に、嘉兵衛との親交も生涯にわたるものとなりますが、重労働の佃島で嘉兵衛に助けられた事を生涯忘れることなく、事あるごとに語っていた周三でした。

    勝郎もその後放免となり、後年、嘉兵衛の番頭格として尽力することになる訳ですが、嘉兵衛本人にもやがて運命の春が巡って来ます。奇しくもそれは易の力が関与した結果でした。 嘉兵衛が乞われるままに担当役人の人事を占った結果、それがある程度的中した事による約束から放免されるに至ったのでした。

    嘉兵衛が流刑地を去る日、佃の渡しを渡れば、自身の生誕の地でもある京橋三十間堀は目と鼻の先です。しかし、自由放免となった嘉兵衛にとって、京橋と佃島の間には渡るに渡れぬ大海のような隔たりがありました。

    慶応元年(1865年)10月10日、自由の身となった嘉兵衛は、名を「高島嘉右衛門」と改めて横浜へと旅立ちます。「江戸お構い」(※法律用語で江戸から追放の意味)という条件が付加されていたからですが、横浜に新天地を求めての再出発でした。

※ある日のTV特集より。
五代友厚ら15人の薩摩藩士のロンドン留学に先立ち、
長州藩士5人の密出国によるロンドン留学がJM商会
からの打診で実施された。

    時、折しも、この慶応元年に至る2年前の文久3(1863)年のこと、長州の若き藩士、伊藤俊輔(後の初代総理大臣 伊藤博文)と井上馨(Inoue  Kaoru)ら5名がイギリスへ留学しました。 彼らは「Cho-syu-five 長州ファイブ」として、名門、マセソン家の重鎮ヒュー マセソンによって丁寧な保護指導を受けます。

    その段取りを整えたのが横濱の英一番館でお馴染みのジャーディンマセソン商会であり、また、グラバー邸の主、トーマス B. グラバーの指示で実務に奔走したのが日本最初の株式会社「亀山社中」を率いる坂本龍馬でした。

    長州が欧米の艦船を砲撃し、その制裁のためにイギリス海軍が日本へ向かう準備を整えている事実をロンドンで知った伊藤と井上は急ぎ帰国しますが、長州は列強4国連合艦隊砲撃事件(馬関戦争)で完膚なきまでに叩きのめされます。この時に講和交渉を買って出たのが高杉晋作でした。短いイギリス滞在で、英語を学ぶまでに至っていなかった伊藤は通訳としては何の役にも立たなかったのです。

※JM商会150年アニヴァーサリー本に見られる横濱の図。
海岸通りの白い2階建のビルがJM商会(英壱番館)。
居留地の地番「一番」に位置し、現在はシルクセンターが建つ。
横浜スタジアムや関内の一部のエリアは埋め立て前の海の中でした。

※同地に建つ史跡・英一番館の記念碑とレリーフ。
マリンタワーと共に横浜開港100年記念事業の一環として設置され、
文字は当時の横浜市長、平沼亮三さんの揮毫による。

    (薬師寺)嘉兵衛が「高島嘉右衛門」として、新天地横浜に登場する半年前、1865年(慶応元年)4月にアメリカの南北戦争が終結します。即座に、余剰の小銃などの武器弾薬が大量に上海市場に出回り出すと、これを一手に取り仕切っていたのがロスチャイルド系の総合商社ジャーディン・マセソン商会でした。横濱開港と同時に日本に乗り込み、横濱居留地の一等地である地番1番に居を構えた事から、同商会は「英一番館」と呼ばれるようになるわけですが、上海の外灘(ワイタン/band)の一等地にもジャーディンマセソンビル(現存)を構えていました。

    同商会のメンバーであったトーマス B. グラバーは長崎の代理人を務めていたケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店を兼ねることになります。これらの商社は全て、中国への阿片貿易や小判の売買による為替差益で巨万の富を築き上げた大商社でした。

    横浜でビジネスに奔走する高島嘉右衛門が、ある日、その青年と遭遇するのは、もう少し後の事になりますが、事務手続きなどの一般的な場合には、実家本家の屋号「才谷屋」から「才谷 梅太郎」(Saidani Umetaro)の変名を名乗り、正式には、通称の龍馬を加えて「坂本龍馬直柔」(Sakamoto Ryoma Naonari)の名を持つ坂本龍馬、その人でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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