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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

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2021年(令和3年)4月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その47
                            〜高島嘉右衛門さんの事 その(24) 〜

      高島嘉右衛門が浅間山(Sengen-yama)でひらめき、即、確信に変わった自身の未来とも言うべき横浜でのビジネス構想は、専門分野であった建築業に舞い戻ることでした。

     思えば、これまで佐賀鍋島藩江戸屋敷を始め、盛岡南部藩の大屋敷や家臣一同の住居を一手に引き受け、遠州屋嘉兵衛として確固たる実績を築き上げて来た嘉右衛門でした。娘婿に引き継がれた材木の商いが順調なことは、流刑地、佃島から解放されたその足で訪れ、自分の目で実際に検分済みだし、それは、嘉右衛門がこれまで必死の思いで築いて来た取引先との信用も無事に引き継がれている事を意味していました。

     浅間山から眺めた横浜の躍進ぶりに嘉右衛門が覚えた高揚感が、新たな希望と野心に進化したのは当然の成り行きでした。開港から6年を経ただけの横浜が想像もしなかった街に変貌を遂げていることに驚きながら、そこに、自らが関わることになる未来の洋館群が嘉右衛門の眼に鮮やかに映っていたに違いありません。

     後年、取引を開始する英一番館(ジャーディンマセソン商会)を介して、嘉右衛門がご縁をいただく幕閣、勝海舟やグラバーのスタッフとして活動していた坂本龍馬こと才谷梅太郎(本名・坂本直柔 Naonari)等を伴って訪れる事になるこの元町百段の浅間神社は、1909年(明治42年)元町厳島神社に合祀されて、令和の現在に至っています。

※ 歴史上の人物達も佇んだ昔日の日々を偲ぶ今日の「元町百段公園」の夕暮れ。幾多の偉人・先人たちがこの場所から眼下に広がる横浜を眺めて感嘆したことだろう。茶屋があった場所には桜の木が植えられ、その桜が現代の横浜を見守っている。百段は人の心と心を、そして、過去と未来を結ぶ架け橋だった事が実感できるーーー。

     本村(元町)を後にした嘉右衛門が、かつて手腕を振るっていた肥前屋を訪れると、案の定、経営を共にしていた七右衛門の目には警戒の色がありありと見てとれました。それでも慌てて宿の手配をしてくれた七右衛門の顔を立てて、嘉右衛門が記念すべき横浜での5年ぶりの夜を過ごしていると、入牢前に懇意にしていた商売仲間の伊勢屋藤助という男が息せき切って訪ねて来たのです。ただひとり肥前屋に残っていた嘉右衛門派の番頭から「嘉右衛門来浜」の情報を得たからでした。

     縁とは奇なもので、その伊勢屋藤助に急(se)かされるように駕籠に押し込められた嘉右衛門が向かった先は、夫婦で無事の帰還を首を長くして待っているという橘屋磯兵衛の屋敷でした。門前で駕籠を下りた嘉右衛門に駆け寄って来る二人。奥方の顔を見た嘉右衛門が、驚きとともに「娑婆(shaba)に戻って来た」という実感を覚えたのは、立派な女房ぶりの梅ヶ枝がそこに立っていたからでした。

     梅ヶ枝は豊前小倉(現在の福岡県北九州市小倉北区)から流れてきた女性で、嘉右衛門が肥前屋の商売や小判の密売で一旗上げたひと時の余裕から、「家の一軒でも持たせよう」と身受けした馴染みの芸者でした。その直後の嘉右衛門(肥前屋嘉兵衛)の投獄以来、絶望のドン底の日々で貧していた梅ヶ枝を見るに見かねた橘屋磯兵衛が妻として迎え、現在は「お花」と名乗って、3歳になる男の子を授かるなど円満な家庭を築いていたのです。

     主人の橘屋磯兵衛は物腰の柔らかい、実に温厚な人物でした。

     聞けば、息子の名前に嘉右衛門の幼名と同じ「清三郎」を頂き、仏壇の位牌には「俗名 肥前屋嘉兵衛」と記された立派な位牌まで誂えてあったのです。それは全て、妻の命の恩人と聞いた橘屋の感謝の気持ちでした。嘉右衛門(肥前屋嘉兵衛)を忘れないようにと、毎日、大切にお祀りしていたとの話を聞くや、思わず大粒の涙を流す嘉右衛門につられて、橘屋夫妻は勿論、案内をかって出た伊勢屋藤助も嗚咽に震えるばかりで、温かなご縁の繋がりに夜が明けるまで語り合った嘉右衛門は、これまで彼を守ってくれた神仏のような2人の心に手を合わせて感謝を述べるのでした。

     橘屋夫婦の歓待を受け、着々と横浜での地固めが進んできた数日後のこと、以前、嘉右衛門が使っていた手代が3名、連れ立って宿に駆け込んで来ました。

     聞けば、異人館の建築を請け負っていた太田町の材木商、大阪屋吉兵衛の見込み違いから中断している工事があり、その肩代わりをしてみないかとの相談でした。即日、嘉右衛門が大阪屋に会ったことは言うまでもありませんが、その店を無償で借り受け、新しく「高島屋材木店」の看板まで掲げて工事を続行する段取りをつけたことは見事でした。何しろ、裸一貫で流刑地の佃島を放免されて横浜へ来てから、まだ、たったの7日目。再起の足掛かりを得て、早くも事業の体裁を整えたわけですから驚きです。

※ 桜がよく似合う横浜山手の明治後期の洋風建築「山手資料館」。外国人墓地をのぞむレストラン山手十番館に隣接して移築された。諏訪町で牧場を営んでいた中澤氏が、明治42年(1909)に旧本牧上台57番地に建てた住宅で、当初は和洋折衷の大邸宅だった。関東大震災後の昭和2年(1929)、洋館部分を旧牧場地の諏訪町に移築した後の昭和52年(1977)に現在地へ再移築された建物で、戸部の大工によって建造された。関東大震災、第二次世界大戦と大きな災禍をくぐり抜けて来たこの貴重な明治期の建物は、平成11年に横浜市認定歴史的建造物に認定されている。所在地は横浜市中区山手町236ーーー。

     横浜を代表とする居留地の整備が進むにつれて、そこに西洋式街区が出来上がり、緑地帯を備えた道路や分離された歩道と車道、そして、下水道の完備などが順次整えられるようになると、これまでの日本の何処の都市にも無かったモダン都市の片鱗がそこに見え出すわけですが、その代表的なものが擬西洋建築とも言うべき西洋風の建物群で、それはまるで本物の西洋の街区を彷彿とさせ、日本人の好奇心をいやが上にもかきたてる存在感を発揮するようになります。

     ちなみに現代の世で、一般的によく言われる「洋館」とは、1866年11月26日(慶応2年10月20日)に発生した「豚屋火事」と呼ばれる横浜の大火の後に建てられた洋館の事で、関内(中区旧末広町、現在の尾上町1丁目) の豚肉料理屋から出火し、港崎遊郭(Miyozaki Yukaku)を400人の遊女と共に焼き尽くした猛火は、更に拡大して、 外国人居留地や日本人町なども焼き尽くしたわけですが、その凄まじさを教訓とした耐火建築の観点から石材や煉瓦を多用して建てられたのが本格西洋建築の建物で、これが横浜にも多く残るいわゆる洋館と言うことになります。

     横浜の市街が本格的に変貌するのは、まさにこの大火を境にしてからの事で、猛火に見舞われた外国人居留地の再興に付随して幕府と外国公使団との間で居留地再建計画が検討された結果、「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」が締結され、大火の翌年、1867年(慶応3年)、現在の山手地区が新たな外国人居留地として加えられることになりました。その結果、元町の立地が外国人の住居としての山手新居留地とオフィスがある旧居留地との中継点となり、今日の元町発展の原点になりました。

※ 経済学博士・石井寛治氏の名著「近代日本とイギリス資本(ジャーディンマセソン商会を中心に)」は、氏が横浜市史編纂に携わった事に端を発し、後年、英国留学の機会を得た折に、ケンブリッジ大学のユニバーシティライブラリーに保管されている同商会によって寄贈された詳細な資料の発掘の結果生まれたものである。氏の全ての自由時間が捧げられて生まれたこの著書は、1861年の横浜鳥瞰図(横浜開港資料館所蔵)を表紙に頂き、そこに見られる白く大きな建物が横浜の西洋建築第1号の英一番館(ジャーディンマセソン商会横浜オフィス)。現在の大桟橋入り口前の一等地、シルクセンターの敷地がその跡地である。当時の地番、壱番に建つ英国商館だったことから、横浜市民に「英一番館」と呼ばれ親しまれた事が社史にも誇らしく記されているーーー。

     さて、時代が大きく動く歴史的な大事件の中心となる江戸表では、この年、1867年11月9日(慶応3年10月14日)、徳川慶喜による明治天皇への政権返上の奏上と、その翌日に奏上が勅許された結果、ひとつの大きな時代に幕が降ろされる瞬間を迎えることになります。世に言う「大政奉還」(Taisei Houkan) ですが、この大政とは、言うまでもなく、天下の政(Matsurigoto)を意味しています。

     さて、こちらはその前夜とも言うべき横浜、。

     政治のきな臭い状況とは一線を画して、嘉右衛門の建築業は、江戸の娘婿、高島屋平兵衛の店からも資材が豊富に取り寄せられることに加えて、縁あった橘屋磯兵衛の援助もあって、店は日増しに興隆の一途を辿ります。問題はただ一つ、洋館建築に際して、家主である外国人との直接交渉に際する言葉の壁でした。

     当時の横浜は、英語を自由に操れる人間は稀有の存在でしたが、令和の世から幕末を眺めると、諸外国の言葉に堪能な幕閣は多数存在していたし、それぞれの藩の事情で、何等かの形で直接外国人と接触を試みるなどの経緯から、自然に言葉に堪能になった者など、全国に多く分布していました。

     通訳さえ見つかれば、近い将来、外国人との直接のビジネスの要(kaname)となることは必至です。それ程貴重な、通訳が出来る人間の獲得に際して、どのような条件にも応えるつもりの嘉右衛門が大きな節目節目に必ず実行する「卦」をたてて占うと、得られたその暗示と結果は、、ひとり驚きの目を見開く嘉右衛門でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

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