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横浜元町の歴史
HISTORY OF MOTOMACHI

横浜元町今昔物語

はじまりは江戸時代に遡り、大震災や戦火を乗り越え、現在の繁栄を迎えた元町ショッピングストリート。
その道のりと未来への展望を、貴重な資料写真とともにご紹介します。

01 元町のはじまり

元町ショッピングストリートの歴史は、安政6年(1859年)の横浜開港当時までさかのぼることができます。
横浜村は日本大通りを境に、日本人商業地区と外国人居留地区へ事業計画が決定され、万延元年(1860年)1月に横浜村の居住民90戸が隣接する本村に強制移転させられました。その年2月に「本村」を「横浜元町」に地名変更したのが元町の始まりです。
元町の居住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、明治7年頃になると、山手居留地に外国人が多く住むようになり、元町通りが山手の住居地と関内の業務地を結ぶ外国人の日常的な通り道になしました。それに伴い、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えていきました。
大正初期には、谷崎潤一郎の小説にあるように「彼ら(西洋人)を相手に商いをする花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどが一杯に並んでいる」エキゾチックな街を形成するに至ったのです。まさに元町ショッピングストリートは文明開花とともに誕生したと言えましょう。

横浜山手

山手本通りとワシン坂通りの尾根道周辺の横浜山手は、かつて居留外国人から「ブラフ」(切り立った崖を意味する)と呼ばれていました。外国人墓地は、ペリー艦隊の水兵が死亡したのを墓地に埋葬したのが始まりです。元町公園は昭和初期に元町プールの建設とともに整備されたもので、面積は約2ヘクタールあります。

02 外国人居留区地の商店街

元町の住民の大部分は当初農漁業に従事していましたが、慶応3年に、山手に居留地が設けられ外国人が住むようになると、元町通りが山手の住宅と関内の商館を結ぶ外国人の日常的な通り道になりました。それに伴って、外国人を対象に商売を始める者が自然発生的に増えて元町はエキゾチックな街を形成するに至ったのです。

明主石川徳右衛門の家(横浜開港資料館所蔵)

明主石川徳右衛門の家(横浜開港資料館所蔵)

代官坂

代官坂の名は坂の途中にある横浜村の元名主石川家に由来しています。横浜村周辺は、開港期に神奈川奉行所預かりとなり石川家は代官ではなかったのですが、ペリーが横浜村名主を町長と考えて表敬訪問したため呼ばれるようになったなどの幾つかの言い伝えがあります。それで、明治20年代から、石川家が代官屋敷、旧箕輪坂が代官坂と呼ばれるようになりました。

現在の元町厳島神社

現在の元町厳島神社

元町厳島神社

元町厳島神社は、元町5丁目208番地、元町4丁目と5丁目の丘裾にあります。赤い鳥居をくぐり正面の階段をのぼると本宮、左に皇大神宮、さらに左隣に金刀比羅宮が鎮座しています。もともとは横浜村洲干島にあったもので、元町に移り、元町厳島神社と呼ばれるようになったのは、明治2年(1869)からです。

浅間坂に向って右に貸自転車店、ウォッチメーカーの看板が見える

浅間坂に向って右に貸自転車店、ウォッチメーカーの看板が見える

百段坂と前田橋

関東大震災で崩壊していまはありませんが、大正時代まで、山頂の浅間神社に上がる階段がありました。百一段あったところから人々は百段坂と呼び親しみ、居留地の外国人たちもしばしばこの階段を上がって、山上のお茶屋から港と市街の風景を楽しみました。この坂に続く橋が前田橋で、いまの橋は昭和58年(1983)に架替工事が行われました。

03 焦土からの復興

ところが、大正12年(1923年)9月の関東大震災で壊滅的被害を受け、またその頃には各地で開港され、外国人居留地に存在した外国商社の多くが東京に移転したころから、輸入品の流れは各港に分散され、輸入品の一手引き受けの魅力を持った元町のウエイトは急速に低下しました。この結果かつての活気は薄れ、山手住宅地に住む一部在日居留外国人客と、東京からわずかに往時の元町のイメージを懐かしむ日本人客の一部とが元町ショッピングストリートの上客として、細々とした営業を続けることになりました。
その後、昭和20年(1945年)5月の太平洋戦争横浜大空襲で、元町ショッピングストリートは再び焼土と化しましたが、終戦と同じに米国進駐軍が大挙して横浜に上陸したころから、奇しくも開港当時の状況が再現されることになったのです。即ち、長年外国人相手の商売のノウハウを培ってきた元町ショッピングストリートは、駐留軍人とその家族の需要を満たす形で復興の緒についたのです。

明主石川徳右衛門の家(横浜開港資料館所蔵)

両面交通で混雑する元町ショッピングストリート

戦後の世の中もようやく落ち着きを取り戻した頃、元町にも進駐軍の兵士だけでなく、山手や本牧に駐留する米軍の家族連れが大型乗用車に乗って訪れるようになりました。狭い道にこうした車が多く乗り入れるようになると、歩行者は店の前に立ってゆっくりウインドーを覗き込むこともできなくなるため、進駐軍の命令で車道は一方通行となりました。

04 元町SS会の設立

元町ショッピングストリートの復興を図り、さらには進駐軍との折衝を行うため昭和21年(1946年)6月に元町ショッピング・ストリート・アソシエーションの略字を使い「元町SS会」の準備会が発足し、昭和22年(1947年)4月に「元町SS会」が設立されました。当時この元町SS会は単なる任意団体にすぎませんでしたが、昭和27年(1952年)1月には協同組合元町SS会と名称変更して登記されました。
ところで、駐留軍人とその家族からの需要に支えられた繁栄は昭和27年(1952年)の朝鮮動乱の勃発による米軍基地の接収解除で長続きはしませんでした。顧客の大半を占めていた駐留軍人とその家族の移動により、大事なお得意様を失うことになり危急存亡の岐路に立たされることになったのです。
そこで元町の伝統を生かしつつ、日本人特に若者を対象とした新しい街づくりをスタートさせたのです。まず昭和30年(1955年)11月に横浜市より壁面線後退の指定を受け、県・市及び横浜銀行の協力を得て、組合員一致団結のもとに、全長両側合計1000メートルの商店街の軒下1.8メートルのセットバックをほぼ10年の歳月をかけて実行し、前項に先駆けたユニークな「歩行者空間」を生み出しました。
次に、昭和42年(1967年)10月にヨーロッパ6ヶ国の一流商店街と姉妹協約を結び、商品の直輸入・情報交換を図り、独自のオリジナル商品の開発も進めました。さらには、商店街の知名度を上げるために昭和41年(1966年)以降全国一流百貨店と販売提携した元町セールなども展開しました。

壁面後退完成の祝賀パレード

壁面後退完成の祝賀パレード

世界の元町

お客様がゆっくりと買物を楽しめる街にするために、道の両側の建物が道路に接す年をかけて完成したのが現在の壁面後退した元町ショッピングストリートです。昭和42年(1967)からはヨーロッパの主要都市商店街との姉妹ストリート契約を結んで親善を深めています。

チャーミングセールで混雑する元町ショッピングストリート入り口

チャーミングセールで混雑する元町ショッピングストリート入り口

ハマトラブーム

女性向けファッション雑誌が横浜のお嬢様ファッションを取り上げて、これを「ヨコハマ・トラディショナル」略して「ハマトラ」と名づけて紹介したのが始まりです。山手にあるフェリス女学院やサンモールの女子学生が以前から身につけていたカジュアル・ファッションをいいます。「ハマトラ」の流行は元町を一挙に全国に知らしめました。

05 今日の元町

こうした商店街活動の積み重ねの結果、元町ショッピングストリートの知名度は急速に高まり、今日オリジナルファッションを求めるモトマチアンが全国各地から訪れる全国有数のファッション商店街の地位を築くに至りました。
さらに、昭和54年以降環境の変化に対応した商店街の在り方について検討を重ね街づくりに取り組んだ結果、昭和60年8月に歩道の拡幅、電線の埋設等道路再整備事業を完成し、チャーミングで個性ある店舗と街路とが調和した質の高い街路空間が出現しました。このように、元町ショッピングストリートの歴史は常に自らの手で活路を見つけ運命を切り開いてきた歴史であると言えましょう。

明主石川徳右衛門の家(横浜開港資料館所蔵)

フェニックスアーチ

昭和60年(1985)、第二期街づくりにおける元町のシンボルとして建てられました。元町のイメージを「伝統を受け継ぎながら、常に新しく生きるフェニックス」ととらえ、「翔べ光の中へ」の意味が込められています。アーチの高さは10.5mその上に幅4.8m高さ2.3mのステンレス・パイプの不死鳥が羽ばたいています。

06 未来の元町

21世紀を迎えた元町ショッピングストリートは、第三期街づくりを経て、更なる発展を遂げようとしています。多種多様化するお客さまのニーズにどう応えるべきか、現在のオーナー世代から次世代の若者までが意見交換をして、元町の魅力を見直す為に日々努力しています。
元町の長い歴史の中で培ってきたものを守りながらも、新しいものを積極的に取り入れ、ますます魅力溢れる街に。これからの元町ショッピングストリートに是非ご期待ください。

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