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横浜元町の歴史
HISTORY OF MOTOMACHI

横浜元町・この人・その歴史

元町の歴史を知る方々からの貴重なお話を集めた連載シリーズです。
元町の知らざれる過去がいろいろと出てまいります。

01 焼け野原を前にみんなが一つになって元町は生まれ変わりました。-福島邦典さん-

福島邦典さん

福島邦典さん

(ふくしま くにのり)
昭和3年8月3日
元町1丁目20番地生まれ

熱風に一瞬にしてのみこまれた元町

米軍による本土襲撃が激しさを増していった昭和20年、私は勤労動員で横浜造船所(三菱造船所 現 みなとみらい)にいました。製缶工場の粉じんで体調を崩し、事務所に配転され戦地に赴いている従業員に、家族手当にあたる給与の一部を支払う送金事務を担当させられていました。多いときには1000人分の振替用紙に書き込むという、いま考えても大変な仕事で毎日のように夜遅くまでかかりました。ときには100円を超す現金を、一人で桜木町郵便局まで発送に行きました。私はY校(市立横浜商業高等学校)の生徒でしたが、戦争の激しくなった昭和19-20年は学校へ通うことが次第に少なくなり、最後はほとんどなくなりました。

横浜大空襲のあった5月29日、私は会社の指示で女性従業員を掃部山(かもんやま 現 掃部山公園)の横穴防空壕に避難させよとの命令を各工場に連絡を済ましたあと、自転車で元町に戻りました。間もなく上空を埋め尽くすように飛来したB29、500機から焼夷弾が雨のように降ってきました。P51、100機の機銃掃射もありました。凄まじい炎と立っていられないほどの熱風は元町を一瞬にしてのみこんでいきました。ものの一時間もしないうちに横浜は焼失しました。自分の家は跡形もなく、貴重な写真などもすべて焼失しました。

まだ戦争が終わっていないので、連日、空襲警報のサイレンに満足に眠ることもできない日が続くなか、焼け野原になった元町に踏み止まった人たち(町内会役員など)によって生活の基盤である衣食住の確保が始まりました。当時の元町は、東部、西部の二つの町内会に分かれていました。私は東部(1、2、3丁目)の住民でした。焼け残った加藤さんのガレージ(元町1丁目12番地 現みなとみらい線元町・中華街駅入り口)を借りて仮の事務所とし、さっそく、食料の配給を始めることになったのですが、若い者は私一人しかいません。やむを得ず、その日から、29の隣組に配る食料やその他の物資を受け取りに、リヤカーを引いて横浜東宝会館(馬車道 現 関内ホール)、寿町市場などに日参しました。リヤカーいっぱいに積んで帰ると事務所前の道路に食料品(鮭缶、大豆の絞りかす、もやし、鯨の皮、サツマイモのつる、たまに鰯など)を区分けして並べました。そして隣組に連呼してまわり、配給のあることを知らせました。

生きる力にあふれた人たち

配給に追われる間も空襲警報は続いていました。私は8月1日、この場所(元町1丁目20番地)で母を亡くしました。そして8月15日、終戦を迎えることになったのです。戦火の中、唯一持ち出したラジオで天皇陛下のお言葉を聞いたのも、つい先頃のように思い出されます。このラジオはいまも大切に保管しています。翌16日は、グラマンF6F、P38などが超低空で横浜の空を飛び交い、おそろしい思いをした記憶があります。連合軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に降り立った日から、世の中は一変しました。横浜は日本で最初の占領軍駐留のまちになったのです。街角には銃を持った兵士が立ち、ジープに乗ったMPが市内を走り回っていました。

そんな慌ただしいなかで、元町の復興は始まりました。復興という言葉を使うと重々しいのですが、戦争から解放され、貨幣価値も暴落するという混乱の中で、何をしたらいいのかわからずに過ごした時期がありました。それでも、資材になるものをどこからか集めてきてバラックを建てました。英語が堪能だった石川庄之助さん(ヒル薬局)、石橋豊吉さん(喜久屋)、織田城嘉さん(ポピー)などが中心になって復興計画を立て、暮らしに必要なことから始めることにしました。北村嘉一さん、石渡作太郎さん、家田実さんや石橋久義さんたちもいろいろ協力してくれました。

やがて3丁目の角(現CHARMY TANAKA)に町内会事務所ができ、私は転出入、郵便物の取扱いなども一年以上手伝いました。医院を誘致するために、長塚先生を避難先から町内会事務所に転居をお願いし、仮設の診療所を作りました。銭湯(元町温泉)を作るために、石川さんと同郷の富山県から飛島組(現 飛島建設)が駆けつけて建設に尽力してくれたこともありました。電信柱とは名ばかりの柱を作り、電気を引いたりと、元町の人たちも誰彼となく、自分たちにできることを探してまちづくりを進めていきました。若者はほとんどいませんでしたが10代の若い盛りの私も、少しは力になっていたと思います。

いま思いだしても、あの頃は落語のような出来事の連続でしたねえ。

よく覚えているのは石川さんと石橋さん、織田さんが前田橋の向こうの焼け跡ビル、のちの日本クリーニングの建物に進駐軍相手のクラブを開いた時のことです。「キャナル・クラブ」と呼びました。いまで言えば米兵の給料目当てのアミューズメントスペースといった趣です。一階はダンスホール、二階はゲームセンターのように仕立てよということなって、横須賀の花街まで若い仲間とビリヤード台を取りに行ったりしました。「キャナル・クラブ」には生麦の麒麟麦酒の工場から毎日、馬力(馬車)一台分のビールが運ばれてきました。連日、ホールを閉めたあとに、米兵が飲み残したビールを飲むので、おかげで酒が強くなりました。

山登り、スキー、バレーボールに野球

終戦から数年たち、スポーツにいち早く目を向けたのは若いグループでした。エネルギーを発散する場がほしかったのかも知れませんね。自分たちは元町の人間なんだ、という自負もあったと思います。会の名称は「元町クラブ」としました。山岳部ができ、野球部やバレーボール部もできました。

山岳部では、横浜駅から神中線(現 相模鉄道)に揺られて丹沢へ行き、沢登りに熱中しました。山登りの装備などないころですから、手弁当に下駄履きで草鞋を持参して、ときには釜まで持っていって河原で食事をしたり…いまではなつかしい思い出です。

山岳部はその後、元町スキークラブに発展しました。最初のうちはスキーのできそうな菅平を選びました。当時(昭和22、23年ごろ)はスキーを電車に持ち込むことができなかったので、廃材を利用した木箱に入れて、菅平の最寄りの真田駅留めで送りました。出かけるときに、忘れちゃならないのが釘抜きです。それは、駅に届いている道具の入った木箱をあけるのに、絶対に必要だったためです。

駅からのバスやゲレンデのリフトなんてもちろんありません。スキー場まで何キロもスキーを担いで雪道を登りました。ようやくの思いで着いた山小屋では、当時なかなかお目にかかれないコーヒーが味わえたのですが、夜になると枕元に積雪ができるといった安普請です。ゲレンデというのも名ばかり、単に岩や樹木のないスロープで朝から新雪をスキーで固めないと滑ることができないありさまでした。人影もほとんどなく、三浦雄一郎さんのお父さんがオーストラリアの兵士にスキーを教えていたのを覚えています。

バレーボールは、長めの紐を張ってネットの代わりにして。どこかから見つけてきたボールで楽しんでいましたが、その貴重なボールがパンクすると、修理するまでできなくなるわけです。野球も、グローブをしてたのは投手と捕手だけといった状態から始まり、のちに少年野球へと発展していきました。

本物との出会い

私は昭和23年、町会事務所の仕事が区役所に引き継がれたのをきっかけに織田城嘉さんとともに婦人服の販売(ポピー)を始め、その後、紳士服も手がけるようになりました。私の役割は、デザイン(店舗デザイン、マーク、商品の製造発注)と販売でした。やがて元町ポピーには、連日、アメリカ駐留海軍の軍の将校やCIAらしき人物など、おしゃれな外国人の出入りが多くなり、東京からは有名人が次々に来店するようになりました。

ある日、ニューヨークから来た海軍将校が「こういうシャツを作れるか」と自らお持ちになったのが、いまではポピー定番のボタンダウンのシャツ、しかも紛れもないブルックス・ブラザース製の本物だったのです。 そのころ、米国のファッション雑誌でしか紳士服の勉強ができなかった私には、本物のシャツが輝いて見えました。おそらく戦後、日本で最初にブルックス・ブラザース製のシャツを入手したのポピーだろうと思います。

静かにまちを見守りながら余生を楽しむ

話し出せばきりがないですね。しばらく忘れていたことが、あれこれ話すうちに順序不同で思い出されて、考え方によっては、生きることに張りのあるいい時代を生きてきたなあって思います。戦後の再出発からの歩みを振り返っても、元町はいつもその時代ごとに素晴らしい人たちが集まり、一つになってやってきた。時代とともに人が変わっても、まちはつねにいい方向へと変わっていく。時代の変化を察知して変わっていかないと、まちも自分たちも生き残っていけない、という思いが無意識のうちに元町の人たちは引き継いでいるような気がします。

私は70歳を迎えたときに車を手放し、以来、ハンドルを握ることをやめました。好きだった車から距離を置くことで自分の考え方や行動を、自分で変えていかなければならないと言い聞かせるためでした。IT(情報技術)時代は若い世代のまちづくりが必要で、新しい情報、新しいリーダーに大いに期待したいと思います。老兵は一線から退き、静かにまちを見守っていきたいと思います。16歳のころから戦後の元町にいろいろな形でかかわらせていただいたことを感謝して、今後は自分にできる余生を過ごしていきたいと思っています。

02 ボタンダウンにクラブタイ。これが私のスタイルなんです。-織田正雄さん-

織田正雄さん

(おだ まさお)
大正4年4月1日
石川県生まれ

私は石川県小松市に近い寺井というまちで生まれました。生家は古くから陶芸品を手がけていました。焼き物を作りながら、九谷、伊万里、薩摩なども扱っていました。明治14年、祖父の織田庄作が横浜に出てきて弁天通り(現 関内の一角)に陶器店を開きました。九谷のほか、瀬戸からも陶器を取り寄せて販売していました。一時期、弘明寺(南区)に織田オリジナル陶器を焼くため、自前の窯を持っていました。人が立ったまま出入りできるほどの大きさで、使う電気で市電(路面電車)一両を動かすことができました。 関東大震災まで弁天通りで商売を続け、その後、元町一丁目に移りました。

私は高等小学校(現在の中学生)のころ、父とともに横浜へ出てきました。織田陶器店は戦後、東京のお得意先からの注文を受け、白い生地の皿などに花鳥風月の和風絵を描いたオリジナルディナーセットを制作し、納めることが増えていました。運ぶのは私の役目でした。

納めるといっても1ダース単位のディナーセットは梱包するとかなりの数、重さになります。朝早く起き、荷造りしてリヤカーに積み込み、弁当を持って6時に出発します。当時の第一京浜国道は荷馬車が行き交い、たまに車が走ってくる程度です。リヤカーを引く自転車はスイスイ走れました。川崎を過ぎ、多摩川に着いて弁当をひろげ休憩をとります。お得意先はもうすぐです。納品を済ませ、元町へ戻り、残りの荷を積んで再びお客さまのところへ持っていく。そんな日が続きました。山手にもたくさんの外国人が住んでいましたが、織田陶器店に注文をくれるお客さまの多くが東京の方たちでした。口コミで評判が広まり、スペイン大使館からも大量のディナーセットを頼まれたことがあります。

父が亡くなったあと、貿易関係の仕事をしていた兄とともに輸出用の雑貨類を扱う会社を起こしました。注文をうけた品物をそろえ、貨客船に積み込むため着岸場所までリヤカーで持っていきます。大半の貨客船が午後4時の出航でした。朝早くから荷を梱包するために材木にくぎを打ち、送り先や荷の中身を示すマークを刷り込み、3時までに船に積み込めるよう運ぶ、というのが日常でした。アメリカなどへ輸出していたのは京都・西陣織のネクタイなど、日本オリジナルが多かったですね。荷の中にはサンプルも入れておき、現地のディーラーが大きなトレーラーで北米各地をまわり、移動展示会をして注文をとってきます。その数などを指示されて、商品を取り寄せ、荷造りし、船に積み込む。これが兄と始めた織田商店の仕事でした。

織田商店として雑貨類の輸出を手がけながら、兄と私と福島邦典さんとで婦人服を扱うようになりました。三人とも、自称おしゃれ好きな道楽者ですから、気があった。福島さんは絵が達者で、アメリカの雑誌を見ながらネクタイやシャツなどのデザインをスケッチし熱心に研究していました。商売をしている間に米軍将校や有名人がお客さまになっていき、洋装品への注文も増えていったからです。とはいえ、戦後の統制下ではまだ洋装品を自由に扱えなかったので、こわごわ商売をしていたというのが本音です。そのうち、紳士服も手がけるようになりました。

ブルーと白の細いストライプ柄、オーソドックスなボタンダウンシャツは、生地を織り、裁断・縫製したオリジナルです。さまざまな斜めの模様が織りなすレジメンタル柄のネクタイなども、東京のシャツ専門店、紳士服店でも当時は扱ってなかった商品をいくつも作りました。いまのポピーの始まりでした。出入りする外国人のお客さまが紳士服づくりの先生のようなものでした。センスの良さに刺激され、その着こなしにも憧れたものです。私はその当時作ったボタンダウン、レジメンタルのクラブタイを自分のスタイルと決めてずっと今日まで着ているんです。兄もそうでした。自分のスタイルを一年中変えませんでした。

ポピーという店名も、お客さまとの関係から生まれました。織田テイラーとかいう名前がまずは浮かびますけれど、店によくいらっしゃていたアメリカ兵軍曹の出身地がカリフォルニア、州花はポピーだと教えられてこれに決めました。

腕のいい仕立て職人とともに、財界で活躍する方たちのオフィスやご自宅を朝のうちに訪ね、その場で採寸しシャツやスーツを作り上げることもしました。ポピーの紳士服に袖を通し、着心地の良さを実感したいただいた方がまわりの方に紹介してくださる。呼ばれて仕立てを頼まれる。そんなときがありました。財界人や有名人が避暑に向かう軽井沢に店を出せばもっと知られるようになるとアドバイスをくださったのも、このころ贔屓にしていただいた方でした。

クリフサイドをはじめ、たくさんあったダンスホールによく遊びに行ったものです。夕食を済ますと、これといってすることがない。じゃあ踊りに行こうか、というわけで、毎晩のように繰り出していたこともあります。ダンス専用のシューズも作ったほどです。

人間、年を重ねれば若いころが懐かしくて、いい時代だったと口から出てくる。ある面、仕方のないことかもしれませんが、私は気に入ったスタイルを発見し、着こなす楽しみを横浜に出てきて、ポピーを始めて知ったと思っています。ポピーをご指名くださる男性は、足元から頭の先までファッションの筋が一本ピッと通った方ばかりでした。こだわりのあるお客さまにいい加減な商品は売れない、作れない。自らにそう言い聞かせてポピーを続けてきました。

愚痴に聞こえるかもしれませんが、いまの男性、世代に関係なくネクタイをご自分で選べる人が少なくなりました。おしゃれとは自分の好みをしっかりつかんで、着こなす過程を楽しむことです。自分の着る服を奥さん、恋人のいいなりで選ばないでほしい、と思います。

このほかお話しいただいたこと
  • 織田商店として輸出雑貨を扱っていた当時、日本郵船を代表する貨客船だった氷川丸は北米航路の定期船でした。円/ドルのレートが1ドル360円でした。
  • 氷川丸は一時期、赤煉瓦倉庫前の埠頭を専用の着岸壁として使っていました。
    赤煉瓦倉庫前の埠頭には線路が引き込まれていて、皇族の外遊ではお召し列車が入ってきていました。横浜港先の東京湾上で、日本海軍の艦観式が行われ、見物に行ったことがあります。
  • 日中戦争が始まったのは1937年7月でした。翌8月に召集を受け、金沢の第九師団に配属されましたが、栄養失調で脚気を患っていたのがもとで帰されました。
  • 戸籍を横浜に移したのち、昭和15年に再招集を受けました。近衛大隊の配属になり、軍用列車で広島へ。広島からは輸送船で上海に着きました。租界華やかかりしころの思い出もたくさんあります。
  • 黄河を遡った中国大陸の奥地で終戦を迎え、捕虜生活を過ごした後に復員しました。元町は焼け野原から復興をしていたころです。兄が元町に留まっていて、進駐軍の兵隊相手に京都などから取り寄せた日本製品を売っていました。
  • 吉田橋周辺にあったかまぼこ兵舎の米兵相手に、焼け残ったビルを使ってキャバレーを開きました。私の兄とヒル薬局の石川さん、喜久屋の石橋さんの三人だったと思います。生麦までビールを取りに行き、氷を入れた浴槽で冷やす。店で出す食品は、米兵と親しくなって結婚していった日本女性が持ってきてくれたのを使いました。
  • 元町のゴルフ好きが集まったMGCの発起人の一人が私の兄でした。多摩川河川敷のコース、湘南カントリーなどへよく行っていました。現在の根岸森林公園にもコースはありましたが、GI専用でした。
  • VANをつくった石津謙介さんもポピーに視察に来たと記憶しています。
  • 指揮者でエッセイもお書きになる団伊球磨さん、英国留学された三笠宮殿下など著名な方の紳士服も仕立てています。
  • 省線に乗って銀座に行き、数寄屋橋で映画を観て帰ってきても1円あれば充分でした。伊勢佐木町のオデヲン座には毎週のように封切りを観に行っていました。映画のプログラムはファッションを勉強するのにいい教材でした。

03 よきリーダー、よき仲間。人に恵まれた元町は私の誇りです。-小島福三郎さん-

小島福三郎さん

(こじま ふくさぶろう)
大正11年2月3日
横浜・伊勢佐木町生まれ

観光客誘致、まちづくり

幼い頃に父を、物心ついて母を亡くしたので家庭のあたたかさに憧れていたんでしょうね。ザキ(伊勢佐木町)でちょっとは知られた喫茶店の看板娘を嫁にもらい、一家を構えました。24歳のときです。実家は古くからザキで商売をしていましたが、兄弟で店を経営するには何かと課題もあったものだから独立して元町にきたんです。朝鮮戦争の最中で、私は28歳になっていました。

昭和20年代半ばの元町は、朝鮮戦争の特需でにぎわっていました。多くの店で、米軍の将校、軍属クラスをなじみ客としていました。ところが、戦争の終息とともに将校や軍属が撤収すると、元町はシーンとしてしまいました。一時期、表通りは閑散としたものです。お得意先を日本の方たちに代えなければ商売を続けられない、という困った状況になりました。

20年代後半から30年にかけて、外国からの観光客が豪華客船に乗ってやってきました。停泊する沖合で検閲・入管手続きを済ませ、大桟橋にたくさん上陸してきます。このころ、商工会議所のアイデアで元町と伊勢佐木町、関内の三地区で観光客を歓迎することになりました。元町では外国人客誘致のための英文チラシを作成し、税関にお願いして英文毎日新聞とともに船に届けることにしたんです。私がその担当でした。毎朝5時に起きて、英文毎日と元町を紹介する英文チラシを500部持ってランチーに乗り込み、横浜港の沖合に停泊する客船に持って行くんです。外国のお客さまが桟橋に降り立つ。待ち構えているタクシーに乗り込む。その大半がWhere is MOTOMACHI? と運転手に告げて元町へ足を運んでくれました。英文チラシの効果だと思います。

元町は、一直線に伸びる約500メートルほどの道の両側にいろいろな商店が並ぶ商店街です。裏手は山手に続く丘、目の前には港に通じる運河があります。昭和20年代、順調に復興したといっても、台風が来るとなれば雨戸を釘で打ちつけて風雨をしのぐようなお店ばかり。シャッターのある店は一軒もありませんでした。ネオンが華やかな伊勢佐木町のにぎわいと比べると、それはさみしいまちだったんです。まちとしての特徴を出していかないと将来性がない。歩道を広げてお客さまにゆったり買い物を楽しんでいただこう。そんな発想から壁面後退=元町商店街建築物後退計画がうまれました。店舗を歩道より後退させ、車道や街路もデザインされておしゃれな印象を作りだしている商店街が増えましたが、その先鞭をつけたのは元町だったのではないでしょうか。

昭和30年、壁面後退、店舗の鉄筋化などを柱とする元町のまちづくりが本格的に始まりました。私は理事の一人としてその推進に取り組み、お客さまをむかえる商売仲間の説得から始めました。全員が賛成したわけではありません。商人にとって店はいのちです。店を後退させるのは、自ら店を小さくするようなものだからです。そして資金融資のお願い。陳情。融資のお願い。説得。陳情。何度も繰り返しました。

リーダー出現、まちがひとつにまとまる

豪放磊落、人情に厚い近澤竹雄さんが理事の中のリーダー的存在になっていくにつれて、元町の人たちは気持ちを一つにしていった面があります。まちづくり資金への協力をお願いにいくと、銀行の支店長も耳を傾けてくれました。銀行の方たちとの親睦を兼ねた食事の席では、近澤さんをはじめ松下庄次郎さん(松下家具店)、宝田和七郎さん(タカラダ食器)、竹中敬さん(竹中家具)といった面々が元町を愛する思い、夢を熱っぽく語りました。

まちづくりはいくつかの段階を経て、昭和40年代はじめまで続きます。まちを一変させる壁面後退が進むにつれて、関係者の視察が相次ぎました。まちのにぎわいが増すにつれて全国主要都市のデパート、百貨店から声がかかり元町の店、商品を紹介するフェア、イベントを通じてその名が広まっていきました。交渉役を任された私は、札幌のデパートとの打ち合わせに朝早く羽田を発ち、夜、横浜に戻るなんていうこともありました。「全国に○○銀座と呼ぶ商店があるように、元町の名前をみんなで有名にしよう」という近澤さんの熱意に、みんなが賛同して行動した結果でした。

昭和42年、壁面後退による第1期街づくりの完成を記念する祝賀パレードが行われました。この年は、まちとしてのハード充実をより効果的にする目的で、世界各国の商店街と姉妹提携を結ぶため視察団を結成し、パリ・ローマ・ロンドン・チューリヒ・アムステルダム・ハンブルグを訪ねています。

チャーミングセールの前身があったことをご存じの方は少ないと思います。比較的、お客さまの少ない2月と8月に元町で洋装品などを扱う店が集まりお金とアイデアを出し合ってバーゲンセールをしようということになりました。昭和34年だったと思います。自主運営的なかたちで、20数軒ではじめたセールは翌35年、参加する店が増え、人気店では店内に入るのを待つ長い行列ができるほどでした。そして36年、任意の集まりだったSS会火曜会主催の秋のセールを「チャーミングセール」と銘打ち、大々的に行ったのが第一回目だったんです。この企画は大きな効果をもたらしました。商店街のすべての店が参加してのバーゲンセールですから話題を集め、元町の名が全国的に知られるようになったんです。

元町で飲食店は成功しない、とジンクスのようにいわれた時期がありました。でもいまはあてはまらない。仲通りを中心にフレンチレストランや創造的な和食を楽しめる店が軒を並べ、お客さまを集めています。元町で食事も買い物も楽しむ方が増えれば、自然と滞留時間が伸びていくでしょうね。ここでなければ売っていない、手に入らない名物が元町にあってもいい時代になったと思います。老舗の味も、いま人気の味もそろっていた東横のれん街(渋谷駅 東急百貨店)のようにね。

元町とともに半世紀

このまちに暮らしはじめて半世紀を過ぎました。みなとみらい線の開通で駅が入り口にでき、若い経営者の斬新な発想が、お客さまを引きつける店をうむ。まちの成長、変わり目をいつも感じていられるのは仕合わせです。元町の発展に、微力ながらもかかわってくることができたのは、リーダーや仲間に恵まれ、私のやるべき道を与えてくれたからだと考えています。私はいまや、天下の素浪人です。いまさらああだこうだと言う立場じゃありません。先輩諸氏の背中を見て育ってきた30代、40代といったつぎの世代に、元町の未来が託されています。私は次世代リーダーの活躍をずっと見つめていきたいと思います。

04 栄枯盛衰 世の流れ。元町らしさはそれでも不変。-井田益夫さん-

井田益夫さん

(いだ ますお)
1921年
横浜生まれ

スイスにファッションウォッチを求めて

戦後の復興を果たして、再び商売を始めて活気が出てきた元町も、昭和20年代後半になるとパッとしない時期を迎えます。まち全体を良くしていくには元町に看板を出す店一軒一軒のやる気、金融機関の協力などが欠かせません。30年代に入って間もなく、タクシー代が初乗り60円のころに抽選で50円の現金が当たるセール、三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)をはじめ乗用車を景品に出すなど話題を集めるイベントを立て続けに実施しました。元町の仲間の東奔西走の日々が金融機関をうごかし、資金を得ることができたからでした。

10年返済で借り入れたお金をわずか3年で完済したとき、元町の信用は本物になりました。求心力のあるリーダーのもとでまとまっていた当時の人たちの行動力、結束の強さはいまも語りぐさです。抽選券イベントの成功はまちづくりへの気運を一気に押し上げました。壁面後退による整備には当初、反対の意見もありましたが、徐々にひとつにまとまっていきました。

そのころ私は、商業専門雑誌の出版社が主催する消費者セミナーなどに自腹を切ってよく出かけていました。早朝から太鼓で起こされ、3日連続で商売の何たるかを学ぶ合宿に参加したこともあります。いまも覚えているのは、作家の宇野千代さんが消費者の立場で買い物をしたくなる店、行ってみたくなる商店街とは、といったテーマで話をしていたことです。セールや新商品が入荷した案内は、商店街名で送られるより、行きつけの店の名前で送られてくるほうがうれしい、といった内容だったと思います。

商店街は、多くのお客さまが行ってみたくなるよう工夫を重ね、一つひとつの店はお客さまが喜ぶ商品をそろえ、サービス、接客に気を配るという基本的なことをきちんと行っていればお客さまは支持してくれる、満足してくれるという思いを改めて抱きました。お客さまの望みにきちんと応え、お客さまを大切にしていたからこそ、かつての弁天通りは多くの人出でにぎわっていたのでしょう。横浜を代表する商店街として一時代を築いた伊勢佐木町の商人も、顧客第一を貫いていたと思います。

いまではホームページなどを通じてさまざまな情報を伝えることができますけれども、IT(情報技術)もDM(ダイレクトメール)も、商売のアピールに役立てる道具です。使いこなすためのアイデア、人材が大事だろうと思います。

よく遊び、よく働く

オリジナリティといえば、遊ぶことにも半端じゃない人が多くいました。プロ歌手のバックバンドでギターを弾いていた石川町の酒屋のオヤジとか、戦後間もなく外車を乗り回していたヤツとか、革ジャンをはおって陸王の750ccバイクを走らせていたヤツとか。私は、代官坂にできたクリフサイドに息子を寝かせてからカミさんと出かけたときもあります。二人で踊って遊んでいるあいだに目を覚まさないかと気が気じゃなかったけどね。仲間が集まれば麻雀を楽しんでいた時期もあります。元町の裏通り(現 仲通り)で医院を開業していた先生もその一人で、よく卓を囲みました。熱中すると時間を忘れて打ちます。麻雀のやりすぎで倒れてもオレが診てやるから安心しろ、なんて言ってました。

仲間をあだ名で呼び合っていたのもそのころです。ワッちゃん(宝田和七郎さん)とか、ショーちゃん(松下庄次郎さん)、先生はペーソン (北村鋼一さん)、私はウォッチ。先生の呼び方が外国人風でしゃれてるでしょ。北を中国読みしてペー、村を音読みしてソン、それでペーソン。ウォッチは家業をそのまま使った呼び方です。

ゴルフもよくやりました。外務大臣まで務めた藤山愛一郎さんの協賛をいただいた藤山杯コンペを、MGC(元町ゴルフクラブ)で行っていた昭和30年代がいちばん楽しんでいましたかね。いまじゃコースをフルに回ると、その後3日は何もできないくらい疲れちゃうんですけど。

竹中のオヤジ(幸雄さん)やポピーのオヤジ(織田城嘉さん)などは、元町頑固オヤジの代表みたいな存在でした。自分の仕事、商品に絶対の自信を持っていたから逸話がいっぱいあります。店先に並べた椅子に腰掛けた人が、物差しを当てて大きさを測ろうとしたら「寸分の狂いもありません」ってピシッと言った竹中さん。同業者が背広か何かの手触りを探っていたら「勝手にさわるな」と一喝した織田さん。人づてに耳に入ってきた話だから定かではありませんが、人柄をよく知る私としては、あり得る話だと思っています。

広く世の中を見ることは、商売に限らず必要なことだと思っています。いつか誰かが言っていたのを覚えているんですが、利益の一割は遊びに投資しろ、と言うんです。稼いだお金を私利をずっと見つめていきたいと思います。

05 お客さまを迎え、家族の世話をして、元町の女性はみんなたくましかったんです。-木村ふささん-

木村ふささん

(きむら ふさ)
明治41年
横浜生まれ

夫のあとを継いで店に立つ

私は二十歳で主人の元に嫁いできまして、40歳からお店に立ち、たくさんのお客さまを迎えていました。戦後間もなく、主人を亡くしたのがお店に立つきっかけだったんですが、育ち盛りの一人息子を見ながらお店を切り盛りしていくのは、それは大変でした。まわりに相談相手がないまま、90を過ぎるまで店をやってきました。

ミナト貿易という貿易商を営んでいた主人のあとを継いで、おもにアメリカへ輸出していた刺繍入りのシーツ、ピローケース、ベッドカバーやバスローブなどを並べて売りました。腕のいい刺繍職人がその当時は何人もいて、お店に通ってきては刺繍をしていきました。山手界隈に住む外国のお客さまには、繊細できれいな刺繍が大層人気を集め、よく売れました。独自の模様や色使いだったからでしょうか、和服にみられるような「キムラオリジナルの手作りの刺繍」といえば多くの人が知るまでになりました。野澤屋、高島屋といった百貨店に商品を卸していたこともあるんです。米軍にもいくつかの商品を納めていたと思います。

貿易商から小売へ商売を代えたのはいいんですが、商品の輸出入に必要な書類を、タイプライターを使って英文で作らなくちゃいけない。これがまた一苦労でした。主人の書類づくりを観よう見まね、うろ覚えでキーを叩いて、やっと作る、という日が続きました。いまの店(元町2丁目・ブティックミナト)は、元町通りに面してちょっと奥まった形にショーウインドーがあります。ご覧になるとわかるんですが、天井が高くなっています。お話しした刺繍入りの商品を扱っていた当時、外国のお客さまが大半なので、その方たちの背丈に合わせて作った名残です。

いっとき、輸出用の絵画、版画を店内に飾っていたこともあります。 画商のような仕事をして新進作家の作品、無名の作家の作品を探してきては展示して外国からのお客さまにお土産にどうぞ、とすすめていました。版画は、作家から版を借りて自分で刷ったこともあります。客船が華やかだった時代、大桟橋に船が着くと、観光客はタクシーに乗って元町へ買い物にやって来ました。刺繍製品と並んで絵画や版画の人気も高かったんです。 2階まで売場にしている店は元町でも珍しいほうでしたが、絵画や版画を並べるとなると、どうしても場所が必要になるんです。

洋行、銭湯、嫁いでいったお手伝い

元町の仲間が集まって、ヨーロッパへ商店街の視察に行ったときは、それは楽しかったです。洋行が珍しい時代に、50人近い団体で一週間近くパリやローマ、ロンドンなどを回ったんですからねえ。参加した女性のみなさん、それぞれに自慢の和服を持っていきまして、レセプションでお披露目し、それは好評でした。

ホテルから外出したときです。生まれて初めての外国の街です。勝手がまったく分かりません。そこで歩いた道のところどころに小さな紙を貼っておきまして、帰りはその紙を目印にしてホテルにたどりついたのを、よーく覚えています。

昔、元町には各丁目ごとに銭湯がありました。仕事を仕舞って来た家具職人や大工などが男湯にあふれ、女湯にもまちの仲間が集まってきました。脱衣所や洗い場がまちの社交場のようなものでした。八百屋も魚屋もありました。日々の暮らしには何一つ不自由することはありませんでした。まち全体が、一軒の大きな家のようなものでした。元町のはしからはしまで顔のわかる人たちが住み、どこそこの娘が嫁いだ、子どもが生まれたなんていうことをみんなが知っていました。

店を兼ねた住まいには内風呂があり、トイレも早くから水洗式でした。お店が忙しいので、お手伝いさんを2人、置いていました。職人の娘さんでした。13歳で新潟から出てきて、食事の支度や洗濯や掃除など家事の一切を任せていました。行儀見習いをして大きくなっていき、年頃になってうちから嫁いでいきました。息子一人だった私には、実の娘のようなものでした。いまも元気な便りをくれます。

もうすぐ100歳になります。古い顔なじみはずいぶん少なくなり、すっかり変わってしまいました。若かった頃の余暇はありません。仕事一筋でした。主人を早くに亡くしましたが、残された土地、家、店、信用をここまで守ってきたのが私の誇りです。 息子が一人なのに孫は2人、曾孫は4人、家族にも恵まれています。

06 オンリー元町=日本のどこにもない魅力にあふれたまちで人生を刻んできたしあわせ。-杉島和三郎さん-

杉島和三郎さん

(すぎしま わさぶろう)
1928年
横浜生まれ

元町は過去二回、焼け野原になっています。関東大震災と第二次世界大戦です。自然災害と戦災により、横浜開港当時に元町にいた方たちの子孫は、ほとんどいなくなったといわれます。
大正時代、表通りに看板を出して商売をされていた方たちも戦後は10分の1程度になったようですが、二度の大きな災害に見舞われても、扱う商品を変えてお客さまのために商売を続ける方もあります。また、戦後に元町へ移り住み、成功された方もたくさんいらっしゃいます。丁目ごとにあの方、この方と挙げていけば、一人ひとりに努力と復興の歴史があり、すべてをご紹介することはとてもできません。

私は元町自治運営会のまとめ役として会長を仰せつかっているのですが、商店街=元町SS会・CS会の方たちは自治運営会への協力を何より優先してくださいます。長く途絶えていた「子ども御輿」を復活させたい旨をお知らせしますと、多くの方からあたたかい援助をいただきました。目標額に達するのは間違いなく、立派な「子ども御輿」が町内を練り歩く日は遠くないでしょう。

「元町の魅力は何ですか」と、会う方のほとんどがお聞きになります。魅力を聞かれることほどうれしいことはありません。いっぱいありますが、まず、このまちに生まれ育った立場で言いますと、「環境がいい。静かで、交通の便が良くて、生活しやすい」などです。都心や、市内の他のまちからわざわざ元町に引っ越してこられる方の多くがこの点を挙げてくださいます。商売の面からいいますと、表通りも仲通りも品揃えやスタッフ教育に力を入れ、お客さまに喜ばれる商品や接客、サービスをしようと日々、努力を重ねているお店が多いということです。「オンリー元町=日本のどこにもない魅力」を、個々のお店がアピールし続けている商店街は、他に例がないと思います。

昭和40~50年代の表通りのにぎわいや華やかさ、チャーミングセールなどをご存じのオールド元町ファンには物足りなさがあるでしょうが、きっといつか、かつての輝きに新しい世代独自のアイデアが加わって人々を引きつける元町ができる、と信じています。

まちづくりにみなさんが一体となれるのは、つねに危機感を抱いているからだと思います。お客さまに喜ばれる努力をするのは商人として当たり前のことで、お客さまにながく支持されるにはどうしたらいいかを、ことあるごとに議論できる場を持ち、議論の仕方を知っている二代目、三代目が育っているからだと思います。元町には、問題に直面しても、泣き言の前に解決策をみんなで考える雰囲気があります。みんなの力で何とかしよう、とする前向きなエネルギーがあふれていると思います。

生家のルーツは彦根藩の武家です。大老となった井伊直弼に仕えて江戸にあがり、幕末、大政奉還を経て商家になり、砂糖、自転車といったいわゆる文明開化の品を扱うようになりました。私は昭和3年に生まれていますが、そのころはオートバイを扱っていました。現在はタバコ、喫煙具などの専門店ですが、凝り性の次男が早くから始めた商売です。私は大学を出て三菱重工業に設計技師として就職したので、元町の店でお客さまを迎えた経験はないんです。高度成長期は出張と残業でほとんど家にはいませんでした。遅く帰って睡眠をとり翌朝早くに出かけていくという日々でしたので、店にやってくるお客さまの中には妻を、杉島商店の娘だとばかり思っていたなんていう笑い話もありました。

学生だった昭和20年代はじめは、これといった娯楽がなかったのでダンスが大流行しました。私も大学に通いながらダンスを習い、代官坂にできた本格的なクラブ、クリフサイドでダンスを教えるアルバイトをしていたことがあります。東京から映画俳優などがやって来て、楽団の演奏をバックにフロアでステップを踏む。館内には寿司や天ぷらを出す店もあり、毎夜、にぎやかで華やかな光景が繰り広げられていました。小学校の同級生の妹がダンスや飲食で来店する客を迎えるダンサーで、クローク係も中学校の同級生の妹でした。ダンスの先生役は家に内緒でクリフサイドに出かけるのですが、翌日には彼女たちの報告で女房や家族がそのことを知っているという有様でした。

横浜が開港して間もなく150年です。私は77歳になりますが、開港後の横浜ですでに半分近くを生きてきたんだと思うと感慨もひとしおです。自分の歩んできた月日は、三つに分けられると思います。一つは元町に生まれ育った時期、つぎは大学を出て会社勤めとなり、定年を迎えた昭和63年まで、三つ目は平成になり、元町自治運営会を通じたまちとのかかわりです。
この先もずっとまちの変化と成長を身近に眺めながら、私は元町とかかわって生きていきたいと考えています。

07 陶器店として再出発できたのは復興時の信頼関係があったからでした。-宝田和七郎さん-

宝田和七郎さん

(たからだ わしちろう)
大正7年
横浜生まれ

タカラダを、おしゃれな陶器を扱うお店とご存じの方は多いと思いますが、前身は明治15年に東京・江戸川から出てきた宝田信太郎が三丁目(現 タカラダ)に創業した西洋家具店「宝田家具製作所」です。開港後の横浜は「関内」と呼ばれる地域に商館や銀行などがあり、山の手に外国人が住んでいました。そうした方たちを相手に商売を始める店が集まり、いまの元町の基礎ができあがっていった。洟垂れ小僧だった私は、両親からそのように聞かされて育ってきました。山の手に住んでいる外国人は、坂を下りていけば燃料、家具、パンなどが手に入るので買い物は元町で済んでしまう。元町の商店も、いいお客さまがついて商売が明るくなる。互いにメリットがあったんでしょうね。

大正時代になりまして、宝田家具製作所では電話を入れました。番号は2局の2013番です。親父に聞いた話では局番に続く「20」は中区を示し、「13」は中区で電話を入れたのが13軒目という意味ではないか、ということでした。息子たちにやりくりを任せてからお店に立っていませんから、自分の店の電話番号が思い出せないのに、昔のことはよーく覚えているんです。

山の手に住んでいた外国人は、関東大震災で壊滅した横浜を捨て神戸に移り住んでいきました。大正天皇の崩御とともに昭和の時代を迎えると、金融恐慌から不況が一機に加速していきました。満州事変、上海事変と続き、戦局は先が読めません。元町の通りから人の姿が減っていき、家具ばかりか洋装品さえも売れなくなり、商売に大きな打撃を与えました。戸棚の中の古い物を整理したとき、宝田の満州支店の名刺が出てきたんです。名刺の住所には「満州国奉天市春日町○○番地」と書いてあったと思います。乳業会社にソーダ水製造器を納品していた関係で、大陸に進出したその取引先にも同じ製品を納めるために拠点を設けたのかもしれません。ほかにもお得意様の要望に応えるため、満州に事務所を構えた元町のお店がありました。とはいえ、時代は満州事変が起こる少し前、事務所を開いていたのも1年足らずだったんでしょう。

先の戦争は悲惨でした。元町の仲間の多くが出征していき、いのちを落としました。宝田の身内にも戦死者が出ました。中国・山東省へ歩兵派遣された私は昭和19年に戻ってきましたが、本土空襲は時間の問題でした。20年5月の横浜大空襲で、中心部は2時間ほどで焼け野原になりました。8月には長崎、広島に原子爆弾が投下され、そして終戦を迎えます。元町の商売仲間は箱根に一家で疎開したり、東京に行って空襲で焼け出されたり、いろいろでした。占領軍が進駐し、元町周辺はアイケル・バーガー中将が治安維持などに精力を注いでいました。バラックとはいえ、元町の表通りは店が並び始めていました。そしてある日、宝田の隣で相撲回しの刺繍など高価な商品を作っていた人が東京で戦火を生き延び、物品を持って行くから宝田さんの店先で売ってくれないかと相談してきました。衣類、食料、焼酎何でもあり。値段を付けて持ってきて、売れたら儲けは折半でいい、というのです。喜んだのは私たちのほうです。人と人の信頼は、戦争で消えてなくなるものではなかったんです。

こうして戦後、日用品や雑貨を扱う店として商売を再開しました。終戦からしばらく経つと、瀬戸からも陶器を売ってほしいと一昼夜かけて電車に揺られ、商品をもってくる人も出てきました。東洋陶器(現 ノリタケ)の関係者でした。米一升が10銭程度の時代に、本格的なボーンチャイナのコーヒー茶碗が1客1円50銭、6客揃いで9円という値段です。ところがこれでも売れた。なぜかといえば、進駐を終えて本国に帰国する米兵が、日本土産に陶器を買っていったからです。元町の宝田にはいい陶器がある、という評判が本牧の駐留地にも届きまして、将校や一般兵向けに食器、陶器を納めるようになっていきます。いまのタカラダの基盤が作られました。

朝鮮半島で戦争が始まり、特需が元町にも及びました。このときはハワイ生まれの日系二世が米軍の調達窓口にいて、遠征先の将校、兵隊に必要なあれやこれやを私の店にも大量に注文してくれました。母が英語ペラペラでしたので、二世の兵隊も親しみを持ったんでしょうかね。紙ナプキンだけで一度に何万枚も注文が来まして、それをまとめて持ってこいと平気で言います。そんな突飛な注文ばかりが続くのでトラックを買いましたよ。免許は持っていませんでした。買ってから取りに行ったんです。元町で最初か、あるいは2台目だったと記憶しています。

忙しかったと言えば、港に出張店舗のようなものを開いたことがあります。東京でオリンピックが開かれた年、客船の停泊地が横浜大桟橋だったんです。フランスやイギリス、アメリカから船が着くたび、たくさんの外国の方が上陸してにぎやかでした。オリンピックの開かれた前後、わずかの間でしたが桟橋の入り口に店を構えました。観光みやげに陶器を買っていってくれました。元町の他のお店も忙しかったんじゃないかな。ユニオンさんは、米国船から注文を受けて大量の物資を納めていました。陶器や食器は私の店から調達していました。

震災、戦争、そのあとの時代もいろいろありました。元町の人たちが、まるで一つの家族のようなときもありました。そのころを知っている私には、ちょっと最近は寂しい思いです。

このほかお話しいただいたこと
  • 宝田家具製作所を始めたのは、宝田信太郎。私は三代目。四代目が良一です。
  • 伊勢佐木町の不二屋、もともとは元町の宝田の裏にありましたが、震災で焼けて引っ越したんです。
  • 元町140年史、99ページの写真、このころ私は小学校一年、洟垂れ坊主でした。
  • 兵役から戻った昭和19年、元町は商売どころじゃなかった。多くの店が閉まったままでした。宝田も職人が一人二人といなくなり、両親だけでした。しかし、商人である以上、何かを売らなくては ならない、食べていなかければならない。家具職人として図面が描けたので、近くの造船所に仕事の口を見つけて通いました。
  • 横浜大空襲で店も住まいも焼けてなくなりましたが、両親が磯子に住まいを購入していて焼け残ったためそこへ一家で移住しました。元町の店跡には連絡先を書いた立て看板を差しておきました。
  • 戦時中、山手の丘の上のフェリス女学院のグラウンドには、海軍航空隊の高射砲が設置されていました。
  • 戦後しばらくは食糧難の時期が続きましたが、東京湾をはさんで千葉の富津方面から農家が米などを小船に積んで売りに来ました。米が一升10銭、一斗升で1円前後。一俵買っても2円程度だったと思います。
  • 山手の外国人宅へ品物を配達する使い走りをしていたころ、母は「山手の69番地へ持って行きなさい」としか言いませんでした。住んでいる外国人の名前よりも、洋館のある場所でお客さまを覚えていたんです。
  • 相撲回しなどの刺繍を手がけていたのは後藤さんといいました。
  • 代官坂にクリフサイドができたのは20年代半ばでしょうか。第二京浜国道も開通していたので東京から映画監督、俳優、女優がよく来ていました。私たち地元の人間は、クリフの2階で遊びました。1階はダンスホールとテーブル、2階は一つのテーブルを一人のボーイ、女給が担当して歩合の収入を 得ていたようです。
  • クリフわきの元町隧道は戦時中、軍の備蓄庫代わりに使われていました。そこから物資を運び出し、 トラックで八王子方面へ運ぶ手伝いをさせられた思い出があります。

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