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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

 

2020年(令和2年)3月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その22

新幹線で東京を発ち新横浜を経て、どの辺りから皆さまは「旅に出た」という実感が湧いて来ますか? 全てにスピードが速い近代の旅ですから、落ち着く間も無く大井川に差し掛かり、車窓に富士山が顔を出しているのに気が付いて、初めて旅の気分に浸り出すのではないでしょうか。

東海道五十三次を徒歩で旅した往時、神奈川宿が旅人たちに恰好の景観を提供して旅の気分を存分に味あわせていた事が、安藤(歌川)広重の「東海道五十三次神奈川台之景」から伝わって参ります。

※ 歌川広重 東海道五拾三次 神奈川台之景 (模写)


この絵に大きく広がる美しい入り江こそ、袖ヶ浦と呼ばれた浅瀬のラグーンで、現在の東神奈川から横浜駅一帯やランドマークタワーもこの海の中だったわけですが、このエリア(現在の横浜市西区)一帯の埋め立ては、概ね次の四つステップから成り立っています。

第一期は1700年代で、富士山の宝永噴火による砂の堆積と第八代将軍徳川吉宗の新田開発推奨によるもので、尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など、帷子川(かたびらがわ)河口の岸沿いに「塩除け堤」を築いて小さな新田ができた時代で、第二期は1800年代の天保年間を中心に、岡野新田や平沼新田などの中心部の広大な新田が作られた時代でした。

更に、明治になってからの第三期は、高島嘉右衛門等によって鉄道用地・港湾施設・商用地など都市・港湾機能のための埋め立てが行われた時代で、その後の第四期は昭和以降の「みなとみらい」地区など、新しい都市機能を求めての開発が進められた結果ですので、埋め立ての歴史は現代も変わらずに継続されている事が判ります。

その背景には、まず、平和な江戸時代が続いて人口が急増した事に加えて、前述の江戸幕府・徳川吉宗が新田開発を推奨する高札を出し、埋め立てをした者には土地の所有権や名字帯刀などの名誉を授与した事などから、新田開発が活発になり、現在も町名などに名が残る、尾張屋、平沼、岡野など、当時の豪商、つまり「資本家」が台頭しました。

「高島町、高島台」の名の由来も、次号で詳しく述べたい前述の高島嘉右衛門さんだし、「平沼町、西平沼」は江戸時代の豪商だった友人家の「平沼さん」の由来で、国道16号線がJR東海道線と帷子川を西横浜の浜松町で跨いでいる「尾張屋橋」の名も新田埋め立てにも尽力した尾張屋さんの由来です。余談ですが、西区藤棚商店街の夏の風物詩、子供達にも大人気の「縁日」の縁起でもある日限地蔵尊がある願成寺(がんじょうじ) には、尾張屋さん(服部家)の先祖代々の菩提が弔われています。

※金川砂子に見る「袖ヶ浦之景」。
入り江右手に見える対岸は横濱村の砂州。
(神奈川区史より)

寒村だった横濱村は、この袖ヶ浦の入り江、野毛の浦の向こうにあった州干島(しゅうかんじま) と呼ばれた砂州の上にあって、そこにあった州干弁天社は松林に覆われた1万2千坪の広大な敷地を要しており、みなとみらい線馬車道駅がある弁天通6丁目付近に本殿がありました。

その敷地は、南は太田町5丁目、北は南仲通5丁目、東は弁天通5丁目あたりまで広がり、西は海岸で寄州となっており、馬車道の神奈川県立博物館(横濱正金銀行本店跡)あたりに一の鳥居がありました。四の鳥居までを備えた州干弁天社の荘厳な風情は、神奈川宿台町からの眺望十五景のひとつにも数えられ「州干の雪」の絵などにも当時の景観が残されています。


※商売繁盛・合格祈願・縁結び 、、、
ご利益も多岐にわたる元町鎮守。
元町ポンパドウル本店さんの横道は、
元町厳島神社へ続く参道になっています。

州干弁天社は源頼朝が伊豆国土肥(静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられるほか、足利氏満が般若心経を奉納し、社殿を太田道灌が再建するなど手厚く保護され、第三代将軍・徳川家光によって朱印地が与えられています。朱印地(しゅいんち)とは、江戸時代に幕府・大名より神社・寺院の領地(寺社領)として安堵(領有権の承認や確認のこと)された土地のことで、幕府より朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の権利が約束されたことを意味しています。

境内には瓢箪池があり、清水が湧き出ていたため「清水弁天」とも、また、所在地から「横浜弁天」とも呼ばれていた州干弁天社は、開港後、門前が弁天通として整備され、秀閑寺(しゅうかんじ)という別当寺を有していましたが、廃絶した慶安年間以降は元町1丁目にあった増徳院が別当になります。元禄年間中に、この元町の増徳院境内に仮殿を造営し、上之宮杉山弁天と唱え、平日はご神体をここに安置して、本社には前立のご神体のみを置いて下之宮清水弁天と呼んでいましたが、1869年に街区拡張と「神仏分離令」のため、現在地の羽衣町に移転して厳島神社と改称しています。

元町にある厳島神社も、州干弁天社から、元禄年間に別当となった増徳院に仮殿を造立し「上之宮杉山弁天社」と称していましたが、元町1丁目に社殿を建築して分離し、(元町)厳島神社と改称するに至り、更に、横浜大空襲で消失した後に現在地に再建して、今日に至っています。

折もおり、本年2020年6月の本格稼働を目指して、横浜市中区本町6丁目の北仲通南地区に新築中の地上32階、地下2階、高さ155.4m、延べ面積14万3448 の見事な規模の横浜市新庁舎は、丁度、この州干弁天社があった場所に建立されているわけですから、横浜の鎮守としての存在感がプラスされて、未来永劫、横浜市民を見守ってくれる事でしょう。 (続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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