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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)7月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その54
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(31)

     明治2年(1869年)9月10日、横浜尾上町・高島屋に滞在中だった大隈重信と伊藤博文に呼ばれた嘉右衛門が、2人から尋ねられたのは、民間人の立場から見て、今の日本で一番の急務は何か? という事でした。

     かねてより思案していた嘉右衛門が躊躇(chu-cho)なく、「蒸汽車の敷設」を提言すると、伊藤と大隈は驚いたように顔を見合わせ、伊藤はその場に同席していたジャーディンマセソン商会(英一番館)の当主、サー ウィリアム ケズウィックへ目を移しました。

     先年、同商会とグラバー、そして坂本龍馬率いる亀山社中等の尽力で、長州の若者5人がロンドン留学のため密出国し、異国の地で初めて見た蒸汽車に驚き、実際に乗車した経験のある伊藤はその便利さを実体験で得ていたわけですが、外国に行った事もない嘉右衛門がその存在はもとより利便性を熟知していた事に皆は驚いたのでした。

※ある日のTV番組より。1863年、密出国して英国留学を果たした長州の若者5人は「Cho-Syu Five」と呼ばれてロンドン市民の話題を集めた。彼らの英国滞在をサポートし、ロンドン大学ユニバーシティカレッジへの入学など、全てをアレンジしたのは、英国マセソン商会社長兼ジャーディンマセソン商会(英一番館)の取締役を務めていた「ヒュー マセソン / Hugh Matheson」だった。彼はジャーディン・マセソン商会創業者の一人、ジェイムス マセソンの甥にあたる貴族的で温厚な人物で、世界的な慈善団体フリーメイソン ロンドンロッジの主要幹部メンバーでもあったーーー。

※ロンドンでの5人の勇姿と氏名、そして後年の風貌ーーー。「遠藤謹助」はイングランド銀行見学に興味を示して、帰国後、造幣局の創業と改革に尽力して「造幣の父」と呼ばれた。「井上 勝」は、通称「弥吉」として人気を博し、鉄道発展に寄与して「鉄道の父」と賞賛された。「伊藤博文」は公爵、初代総理大臣。明治期に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めた。「井上 馨」は外務卿、第一次伊藤博文内閣の外務大臣。日本鉄道会社、日本郵船会社の設立をはじめ多くの事業を立ち上げた。「山尾庸三」は鉄道技師長、エドモンド モレルの提案を受けて伊藤博文とともに工部省の設立に勤め、法制局の初代長官に就任。晩年は盲学校、聾学校設置の建白書を表すなど障害者教育に奔走したーーー。

     蒸汽車といえば、日本ではペリーから送られた精巧な模型を江戸城内で将軍や大名などが興味深々で検分し、その後、火事で消失したものが最初と思われていますが、実は、ペリーが幕府に模型を贈った1年後の1855年、佐賀藩が機関車の模型の製造に成功しています。しかも、これはペリーの機関車を手本としたものではなく、ペリーよりも1年早く、1853年にロシアのプチャーチンが長崎に来航した折に、ロシア戦艦の上で佐賀藩の藩士に蒸汽車の模型を披露したものにヒントを得て製作されたオリジナルの日本製でした。

※大隈の愛読書。川本幸民が訳した『遠西奇器述』ーーー。

     当時、佐賀藩藩主の鍋島氏は長崎の警備を担当しており、検分を兼ねてロシア艦に乗艦していますので、模型ながら、これが日本人が国内で初めて目にした蒸気機関車ということになります。ちなみに、日本人で初めて実物の蒸汽車の客車に乗った人物はジョン万次郎で、日本に列車が持ち込まれる8年も前の1845年、アメリカ西海岸での事でした。

     佐賀藩はすでに、蘭学研究の過程で蒸気機関の存在に注目しており、国産蒸気機関の開発を決意すると「精錬方」という研究機関を設置するなど、1855年に蒸気機関車の模型の制作に着手して完成させています。これはペリーの模型よりも小さく、軌間12.8cm、機関車の全長39.5cm、幅14cmというミニサイズで、現在、各地の鉄道イベントで使われるミニ列車くらいのサイズでした。機関車は銅と真ちゅう製で、2気筒のシリンダーを備え、ギアチェンジ機構も装備している本格的なものでした。

     嘉右衛門は、昔からの深い縁で結ばれていた佐賀藩の重臣達から蒸汽車の情報を聴かされていた事は確かで、佐賀鍋島藩士だった大隈重信とは同じ方向を向いて世の中を見ているなどの下地があったゆえに、明治維新の後、富国強兵の旗印の下に鉄道建設の機運が高まって行くキッカケを世に示した人物と言うことが出来ます。

     この蒸気機関車に関しては他藩も皆、それぞれに情報を得ており、同時期に福岡藩も蒸気機関車の模型を製造していたほか、加賀藩や長州藩も外国の蒸気機関車の模型を購入した記録が残っていますが、高島屋での密談で、嘉右衛門が最も熱弁を奮った部分は蒸汽車がもたらす経済性についてでした。つまり、鹿児島と北海道根室の距離は約800里(3千120km)、仮に1日10里の強行軍で進んでも、徒歩なら最低80日を要するところを鉄道ならば僅か3日と半日で済むし、江戸と横浜間の商売も日帰りが可能になるほか、あらゆる物資の輸送が容易に促進される事から、日本全国の物価が安定する事、また、万が一、争い事が勃発した場合は迅速な軍隊の派遣が可能になるなど、嘉右衛門の論理は非常に説得力に満ち溢れていました。

     そんな嘉右衛門に伊藤と大隈の2人が感服したのは、この鉄道工事そのものによって明治維新で職を失った人々に仕事を与えることが出来ると言う論理と、それが結果として世情の安定に直結するとの論理の組み立てでした。この高島嘉右衛門という男が、単に商才に長けているだけの人物ではなく、常に世の民の事に想いを馳せている視野の広い大人物である事を再認識したのでした。

     しかも、嘉右衛門を誉める2人に、それを「聞きかじりの耳学問です」と言い切る懐の深い謙虚さも男が男に惚れるには充分過ぎるものでした。特に、伊藤と大隈は、大上司でもある西郷隆盛から、江戸城無血開城の談判で知った勝海舟の男気について、海舟が幕府解体後の臣下たちの職の手当てを何よりも心配していた事と、横浜港の建造工事に、自ら頭を下げて、仕事が無かった旧幕府の臣下15万余名の仕事の斡旋に奔走した事実を聞かされており、高島嘉右衛門に勝海舟と共通した何かを感じていました。

     嘉右衛門は知っていたのです。政治家ともなると、有益な事業と判っていても、諸々の事情が交錯して板挟みになる結果、身動きが取れなくなって最後は挫折するということを。そこで、この仕事は個人の事業としては如何かを詰めると同時に、東京-横浜間の鉄道を嘉右衛門個人の仕事として建設させて欲しい旨を結論として話を結んだのでした。

     伊藤博文と大隈重信は頼もしい嘉右衛門に笑顔を送りながら、何故か、やんわりと話を打ち切りました。まさに新政府が掲げようとしていたのが「富国強兵」であり、「殖産興業」で、その実現の原動力として、鉄道によるロジスティック(物流)がテーマに上がっていた矢先のことだったのです。(続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

 

   

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