*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
2021年(令和3年)3月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!
【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その46
〜高島嘉右衛門さんの事 その(23) 〜
高島嘉右衛門として船出した第2の人生とも言うべき横浜への道すがら、戸部村の高台、「くらやみ坂」から眺める横浜の光り輝く眩しさは、新しい時代の幕開けにも似て、嘉右衛門の高揚する心を一層燃えたぎらせたことでしょう。
景観の真ん中に位置するのは、現在の横浜の中心部に広がっていた「袖ヶ浦」と呼ばれる埋め立て前の美しい入江で、澄み渡った高い空の下でキラキラと輝いている様は、横浜を再出発の地として定めた嘉右衛門に大きな勇気を与えた事は確かです。
その袖ヶ浦は、現在の保土ヶ谷の手前、天王町や横浜新道付近まで広がる浅瀬の海で、現在より平均気温が2℃高く、海面も4メートル以上も高かった縄文の昔の面影を留めるラグーンで、地元民は勿論のこと、旅人や遊山客に人気の横浜の景観の中心を為しており、まさに絵に描いたような歴史的絶景そのものでした。
「横浜村」という地名が初めて文書に登場するのは1442年(嘉吉2年)の事で、村人2名による薬師堂への田畑寄贈の際の書状に「横浜村薬師堂寄進状」とあるのが最初ですが、その153年後の1595年(文禄4年)、安土桃山時代の大事件であった本能寺の変の後に豊臣秀吉によって実施された検地「縄張水帳」によると、横浜村の住人として、増徳院の住職を含めて13戸が報告されています。
さて、嘉右衛門が横浜で最初に顔を出そうと思っていた伊万里焼の「肥前屋」は、共同経営者で開店当初から意見の合わなかった西村七右衛門が我が物顔で店を牛耳っており、嘉右衛門派だった番頭や手代は、皆、店を追われる様に離散してしまった事を風の便りに聞いていた彼は、肥前屋への顔出しを後回しにすると、真っ先に向かった先は、本村(現在の本町1丁目一帯の横浜村の中心地)から1本の細い道で繋がっていた現在の元町1丁目にあった増徳院(真言宗 海龍山本泉寺増徳院 / 現在は南区平楽に移転)と薬師堂、そして、楽しみにしていた百段の山頂にある浅間神社でした。
※文久3年(1863年) 夏の浅間山からの景観。(横浜市図書館蔵)
左端に堀川に架かる元町橋(現在の前田橋)と、その向こうに外国人居留地の立派な道路が見える。左手前から画面右奥に連なる商家群は現在の元町ショッピングストリートで、突き当たりの森は増徳院と薬師堂の木々。手前の急峻な崖に貼り付くように元町百段が存在している。居留地の急激な人口増加に苦慮した幕府は、1860年(安政7年)に横浜村の住人を山手の丘裾へ強制疎開させるにあたり、増徳院の門前に通りを配して、移住の村民に、その両側の1戸につき間口7間(90坪)の土地を貸与した。通りは増徳院と薬師堂で行き止まりになっていたーーー。
※改築された前田橋(旧元町橋)から望む急峻な元町百段。
頂上に浅間神社の社や見晴台、茶店が見える。横浜港開港直後の1860年(万延元年)、旧横浜村住民の元町移転の際に、海辺にあった浅間神社が当地に移された折に、運上所の船頭を勤めていた勘次郎によって寄進されたのがこの百段であった。頂上から見渡せば、遠く山々を配するように神奈川宿が霞み、たった1本走る街道沿には旅籠がひしめくように建ち並んでいるのが望めたほか、横浜村から神奈川までは舟で2キロメートル余り、陸路を行けば迂回して3倍もの距離があることが一目瞭然だったーーー。
嘉右衛門が再び当地を訪れた世は、元治2年改め慶応元年(1865年)10月。前月の9月には第2次長州征伐が幕府内で決議され、翌1866年(慶応2年)1月に坂本龍馬等の尽力で締結されることになる薩長同盟成立の前夜とも言える時期でもあり、官軍対幕府軍激突の秒読みが開始された頃。そんな中央の騒ぎからは遠く離れた横浜の地、心地よい秋のハマ風に晴れ晴れとした気分を高揚させた嘉右衛門は、元町橋(前田橋)を横目に、真正面にそびえる浅間神社への参道の元町百段を見上げると、これまでの厄落としとばかりに一気に山頂まで登り切るのでした。
嘉右衛門にとってこの浅間神社は、かつて横浜で肥前屋を開店する直前に訪れて以来、遊山の佐賀鍋島藩や盛岡南部藩の江戸屋敷の皆を案内したり、自身も占いとは別のパワーを得ようと遠く江戸を眺めた場所で、今様に言えばホットポイントの浅間(Sengen)さまだったのです。
この浅間山(Sengen-yama)は、横浜の開港当初から大正期にかけて人気の見晴台でした。参道の百段は現在の中華街方面から来て前田橋を渡り、元町ストリートに入る左側が洋菓子の喜久屋、右が宝飾店のチャーミー、元町2丁目と3丁目の境の真正面に位置し、霧笛楼の真後ろに広がる急斜面に階段が101段あったことから「百段」と呼ばれて皆に親しまれていました。
元町鎮守の厳島神社の末社であった「浅間神社」が頂上に祭られており、名物の茶屋もあって、時代の変遷とともに外国人にも人気のエリアとなりましたが、この神社は、元々は横浜村(現在の山下町明治屋付近)にあった「浅間の森」で、万延元年(1860年)の横浜村住人の元町への強制疎開の折に一緒に移されたお社でした。ちなみに、横浜村から移転して来たプライド高い住人たちは、こちらが本当の横浜村と自負していた事から、この地を「横浜元村」とか「本村」と呼び習わしていて、それが「横浜元町」の名称の由来となっています。
山頂から横浜港の出船入船や関内地区が手に取るように眺められたほか、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せましたが、関東大震災の崩壊で多くの犠牲者が出たことから百段は廃止され、現在は同地に百段公園が整備されて往年の景観を垣間見ることが出来ます。
※現在の元町ショッピングストリート、1丁目元町プラザ付近。
増徳院への階段(右)と、左正面のお社(yashiro)は薬師堂と地蔵堂ーーー。
※現在も、昔とほぼ同位置にある薬師堂が今日も元町を見守っているーーー。
余談ながら、横浜開港当時に遡(sakanobo)ると、幕府は奉行所があった戸部村と横濱村に太田村と中村の一部を合併させて横浜とし、その人口は日本人が3,046名で戸数が614戸、外国人としてオランダ人と英国人が各10名と米国人15名、フランス人1名の44人で構成されていたわけですが、あの日から僅か6年の1865年(慶応元年)、民家は勿論、威風堂々とした洋館が建ち並び、一変した眼下の横浜の姿に再び目を凝らした嘉右衛門は、「よしっ、決まった」と呟(tsubuya)くと、佐賀鍋島藩から門出の祝に賜った佐賀錦の帯をポーンと大きな仕草で叩きました。それは、ひとつの考えがまとまった時に必ず実行する嘉右衛門の癖のひとつでした。(続く、、、)
Tommy T. Ishiyama