• facebook
  • twitter
  • instagram
  • youtube

*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)6月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その51
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(28)

     自らの名を配した横浜・尾上町の超一流旅館「高島屋」の創業によって証明された事は、高島嘉右衛門という男が気骨に溢れた半端でない精神を備えた粋な人物という事でした。建築費に糸目をつけなかったばかりか、これまで日本には存在しなかった豪華な和洋折衷の旅館の建築に加えて、特に万全な準備を整えたのは宿泊客の接待を担当するサービス係の人選でした。

     これまでの旅館のイメージを一新する為に、接客担当の男衆に完璧な立ち振る舞いと所作を求めた嘉右衛門は、サービスのプロ集団として、江戸幕府の城中での経験深い茶坊主たちを厳選すると、髪を伸ばさせるなど、スマートな給仕に仕立てたほか、女衆には旧幕臣の息女や幕府の大奥、また諸藩に女中奉公していた素養と教養ある者たちだけを揃えたのです。

     容姿、立居振舞、礼儀作法など、それこそ世界の社交界でサービスさせても遜色のない一流スタッフの存在は、高島屋旅館の顧客のニーズに合致し、他に類を見ない旅館としてその名を馳せる起爆剤となりました。明治新政府の大物や外国公使のすべてが高島屋旅館の常連客となり、当時の日本を代表する幾多の要人が嘉右衛門と懇意になりました。

     一流料理と贅を尽くした旅館の主人は、今や、実業界の大者となり、高島屋は今流に言えば当代のセレブ達が集う館に発展します。何より、横浜港から全国の主要都市とは船便が直結しているというアクセスの良さが追い風になったほか、嘉右衛門には「易」という磨き上げた素養が備わっていたことから、政府の要人達や馴染み客が何か重要な判断が必要になった折は高島屋を訪れて嘉右衛門の易を指針にするなど来客が後を絶ちませんでした。易嫌いだった、南洲こと、西郷隆盛を除いてのお話しですが、、。

※視聴したある日のTBS TV番組、「林 修の歴史ミステリー」より。
戊辰戦争の口火を切った「鳥羽伏見の戦い」。1867年の大政奉還後、一部の幕臣が打倒薩摩を叫び、京都の鳥羽伏見エリアで新政府軍と激突した。新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、徳川慶喜は朝敵に仕立てられたことを悟り江戸へ逃亡。その後、江戸城内では勝海舟の穏健派と小栗上野介の主戦派が対立し、意見が二分するも慶喜は徹底抗戦を避け小栗は罷免されたーーー。

※グラバーを介してジャーディンマセソン商会が幕府より受注した英国製の最新鋭兵器アームストロング砲は納期が遅れた。組織的にも連絡が取れなくなっていた幕府に代わり、グラバーが商談した相手は潤沢な資金を有していた薩摩藩だった。鳥羽伏見の戦いの4ヶ月後、旧幕府軍は仙台藩を中心に奥羽越列藩同盟を結成して東日本政権樹立を目指した。皇族の輪王寺宮を同盟のシンボルと仰ぎ、東の天皇にあたる立場として擁立した。日本の朝廷が室町時代以来530年ぶりに分裂し、2人の天皇が存在した瞬間だったーーー。

     1868年(慶応4年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いはアームストロング砲の圧倒的な威力に旧幕府軍が敗北した瞬間でした。有名な徳川慶喜の大阪城脱出の際は海路を江戸まで逃げ帰って来たわけですが、その同じルートを多くの敗残兵も辿って横浜に上陸した事から、横浜の住民は何が起こっているのかを肌で感じたのでした。

     英一番館(ジャーディンマセソン商会)とシルクの取引をしていた筆者の縁戚、甲斐国東八代郡東油川村(現山梨県笛吹市石和町)に実家がある「横濱甲州屋・篠原忠右衛門」から送られて来た手紙が多く残されており、1868年(慶応4年)1月18日付の忠右衛門の手紙には、鳥羽伏見の戦いの情報が記されています。 曰く「(横濱に)追々怪我人舟にて送り来り、十四日には大怪我人三拾六人、当浜御役所へ上り薬用中にこれあり」などと、多くの負傷兵が上陸し、横浜の役所で治療を受けていることが書き記されているほか、死亡した兵士の処置で横浜が「大混雑」している様子なども描かれており、横浜の人々が、負傷した兵士の姿から戦争が勃発したことをつぶさに感じ取っていた事がよく判ります。

     加えて、忠右衛門は「横浜は当節にては日本一安全の場所に候、安心致さるべく候」とも故郷に書き送っています。同様の書簡は、上州出身の商人吉村屋幸兵衛も「(横濱は)日本第一の大(太/筆者注)平の地」(『吉村屋幸兵衛関係書簡』閏4月29日付)と記していることから、開港場横浜に住む者、皆に共通する感想であった事が判ります。

※慶応4年1月18日付の篠原忠右衛門の書簡。
山梨県立博物館に『甲州屋文書』として所蔵されている多くの書簡は、生糸貿易の研究に利用されるなど、明治元年の横浜の情勢を知りうる数少ない史料として、度々、横浜開港資料館で公開されているーーー。

     さて、嘉右衛門が高島屋の繁盛に伴い、いち早く、政府の裏情報に触れる機会を得ることになるのは必然の結果でした。政府高官等との人脈を育む社交場として大いに利用価値を発揮した高島屋は、丁度この頃、盛岡藩が官軍に抵抗したための政府からの締め付けに貧して、70万両の資金が必要になり、度々の飢饉の折と同様に相談を受けた嘉右衛門は、「至誠奉公の大精神なり」と割り切って献金し、藩とその領民を救っています。

     嘉右衛門が高島屋を訪れる政府要人の中で、特に目をとめた人物は伊藤博文でした。新政府の要人としては最年少だった20歳代の伊藤博文は長州周防の生まれで嘉右衛門よりも9歳年下でした。長州藩では格下の家柄の出でしたが、幕末の皆がそうであったように、若者が実力主義で台頭してきた時代の先駆けでした。

     伊藤博文は、三浦半島の警備にあたった際に警備隊長の木原に認められ、江戸藩邸との連絡係を命ぜられ、この仕事の際に桂小五郎(後の木戸孝允 / Kido Takayoshi) と面識を得た事が、後日の飛躍のきっかけになりました。吉田松陰の門下生となった伊藤は、安政の大獄や桜田門外の変、英国公使館焼き討ち事件、生麦事件など、日本の大変革のキッカケとなった大事件に運命的な関わりを持って来たわけですが、嘉右衛門が伊藤博文に注目したのは、ひとりの易者として、彼の人相、手相に輝くばかりの前途を見出したからでした。

     そして、もうひとり、嘉右衛門が目をつけた人物に旧佐賀藩士の大隈重信がいました。この伊藤と大隈の二人に関して、興味と注目をもって眺めていたのが英国公使バークスでした。パークスは早くから2人のことを、こう側近に漏らしていたのです。「日本はあの二人の働きによって運命を決するようになるだろう、、」と。(続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

 

follow

ページの先頭へ