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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)11月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

生き地獄の伝馬町(Tenma-cho)牢屋敷に投獄される直前、自首するために嘉兵衛が出向いた先は呉服橋にあった江戸北町奉行所でした。

時代を15年余ほど先行して、あの有名な遠山の金さん(Tohyama Kinshiro )のモデルとなった遠山左衛門尉景元(Tohyama Saemon no Joh Kagemoto)が3年間務めていたのがこの北町奉行所で、遠山は晩年に南町奉行も務め上げて1855年の4月に天寿を全うしています。こんな事を申し上げているのも、嘉兵衛が生きた時代や、ドラマ・映画での時代劇が「遠い昔」の出来事ではなく、現代に非常にクロスしている「ついこの間の出来事」ということを申し上げたいからに他なりません。

江戸の町奉行は江戸市中の行政・司法・警察など幅広い分野を担当しており、南北2 か所に設置されて、それぞれが何度か移転しています。前述の北町奉行所は文化3年(1806年)から幕末まで呉服橋御門内にあって、現在の呉服橋交差点の南西、東京駅北口周辺が当該のエリアになりますが、発掘された敷地の北東部の溝から、角を削り面取りをした石が出土していることから、屋敷の鬼門・艮(うしとら :北東)の方角を護る呪術的な意味がある石として話題になりました。

※丸の内トラストシティの東側歩道に、復元された石組みの溝と「旧跡 北町奉行所跡」の碑と解説板が設置されていました。(写真 上)

余談ですが俳優の高橋英樹さんや松方弘樹さんが名演した前述の北町奉行「遠山の金さん」の本人は僅か3年で罷免されましたが、その理由は天保の改革に反対したからで、、その際に町人の生活や娯楽を重視して守ったため、「遠山の金四郎」が庶民の評判を呼び、その芝居が絶賛を博して現代に続く人気の原点となっています。その後、遠山は南町奉行として返り咲き7年間務めますが、南北両方の町奉行を務めるのは極めて異例の人事で、これも人気ゆえのことと容易に想像することが出来ます。

※南町奉行所は現在のJR有楽町駅中央口と交通会館の間ぐらいに位置しており、南町奉行として前述の金さん以外に、後輩として勤務があの大岡越前守忠相(1677年-1752年)が務めていたので現代の我々には親しみがあります(写真 上)

さて、嘉兵衛の牢生活は、通称「つる(牢屋の意)」と呼ばれた持参金の、その百両という前代未聞の高額さのおかげで、入牢早々、牢名主から一目を置かれる存在となり、それは、横濱に肥前屋を開店して以来、江戸の多数の借金取りから殺意に満ちた矢のような督促を受けていた苦痛の日々を思えば、 牢の居心地に贅沢は言えませんでした。

牢死者が年間に2000人にも及ぶ伝馬町牢屋敷は現在の刑務所とは性質が異なり、刑期を全うする為の留置施設ではなく、奉行の裁決を待つ罪人の仮留置場だったのですが、さっさと牢から出される者もいれば、懲らしめる意図から何年も裁きを下されずに放置されたり、中には忘れ去られてしまうなどひどい目に合う者もいて、いつ出られるかと言うより、もう、出られないという失望感が日々満ち溢れているのが常でした。

記録によれば、量刑は死刑・島流しが圧倒的に多く、殺人は勿論、死刑。10両(現在の80万円から100万円)を盗んだり詐欺をしても死刑で、他にも不貞、つまりW不倫や放火も死刑の対象でした。

刑の宣告、お裁きに際しては老中の許可や将軍の承認印が必要でしたから、奉行所の白州の上へ半身で乗り出し、背中の桜吹雪の彫り物をチラつかせながら「罪人XX、この桜吹雪を散らして見やがれ、。お天道様も目を背(Somu)けたくなる極悪非道の数々、市中引き回しの上、獄門の刑に処する」などとカッコ良く啖呵を切って判決を言い渡すような場面は一切ありませんでした。

ちなみに遠山の背中に彫り物があったのは事実ですが、その真実の図柄は手紙(恋文)をくわえた女性の生首という不気味なものでした。どうも、アウトローだった時代の若気の至りの彫り物だったようで、実際の本人が白州でお裁きを下す際には、彫り物の一部が袖口から見えはしないかと気遣って、半身に構えて啖呵を切るどころか、袖を引き下げながら判決を言い渡すのが癖だったようで、事実は小説よりも奇なり、。面白いと思いませんか?

重罪に対する江戸時代の刑罰の筆頭は「死刑」か「遠島」(島流し)が相場でしたから、入牢する者はそれ相応の覚悟で、皆、格子の中でショボンとしていたのです。

嘉兵衛の場合は北町奉行所の与力の 2名、高橋吉右衛門と秋山久蔵によって厳しい取り調べがあり、罪状の詳細が聴取されましたが、自分がお世話になった鍋島藩や他の要人等は、一切、口にする事なく論理的な自白を繰り返す嘉兵衛の巧みな話術に困り果て、「小判売買の共犯者で逃亡した2名の外国人、デーセンとキネフラの再来日を待つこととする」という政治判断での裁決による投獄でしたから、それこそ永遠に出られない可能性が大きかったのです。

※世界が席巻されたCOVID-19(通称・新型コロナウィルス)禍の2020年。横浜元町ショッピングストリートには清らかな雪が舞い降りたような、いつものクリスマスが今年も訪れ、皆さまの安全で安心なご来街をお待ちしています。

幕府にしろ大名にしろ軍事組織であることに違いはなく、民政は民間の自治組織に任されていました。時代劇によく出てくる銭形平次のような岡っ引きの親分と八兵衛のような子分達も人気がありますが、彼らは奉行の直属の配下ではなく、奉行所という警察組織の私的な子飼いだった為に、奉行所の費用から給金が支給される者はほんの少数で、しかもその金額は小遣い程度の微々たるものでした。

ですので、銭形平次のような親分でも収入を得るための本業を持っているか、大きな商店との契約で、警備費用として何がしかの賃金を貰う事によって生計を立てており、100万都市江戸の場合、銭形平次のような親分が約300人、その下に子分が1200人くらいの、都合、1500人で、警備の対象となる江戸市民50万人ほどの人数の安全を、組織として見守っていたのです。

更に、江戸時代は何事も連帯責任で、家を貸している人も借りている人も同じ貸主であれば全員処罰を受けたし、雇用人が多い商店の場合には、雇い主である商店主も一緒に処罰されましたから、隣近所から犯罪者を出すリスクを回避するための「相互監視」ともいうべきお互いの注意喚起のもとに生活が成り立っていました。

その為に、現在の交番に相当する「自身番」と呼ばれる小屋が町内ごとにあったほか、「町木戸」というものが町ごとの境目にあって、木戸番が夜になると戸を閉めて交通を遮断していました。これ等の、自身番や木戸番の維持費は全て町の人が負担し、二重三重に治安を維持する仕組みがありました。

結局、この伝馬町の大牢で半年を過ごした嘉兵衛は、翌年の文久2年3月(1862年)に「二番牢」の浅草溜の牢に、めでたくも副名主となって移る事になるわけですが、嘉兵衛が過ごす本格的な牢屋生活の日々はまだまだ続きます。

そこで嘉兵衛の一生を左右する天性の知能が本格的に芽生えるわけですが、そのキッカケとなったのは、牢名主から餞別として貰った古い一冊の本でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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