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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)7月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

〜 ヨコハマ元町 流れ行く悠久の風に乗って 〜 ( 5 )         

     短冊に願いを込めて、、、。

     元町ストリートを往く柔らかな薄緑色の風に、七夕飾りの笹の葉がサラサラと揺れています。

     散歩の道すがら、目に飛び込んでくるテラスやベランダに飾られている七夕飾りを見上げながら、きっと、子供や同居のお孫さんが、幼稚園児に成長して、一生懸命作った初めての七夕飾りなのだろうと、温かいものを感じます。

※ 古来から伝えられて来た美しい日本の夕焼け。現在を経由して、遠い未来へと、趣き溢れる光の色が伝承されて行くーーー。

     遠目にチラッと眺めた時は、単に、四角い短冊だと思ったら、なんと可愛らしい魚の形のフォルムが風に泳いで、きっと天の川で一緒に泳ごうと短冊を魚の形にしたのに違いありません。続く別のお宅の七夕飾は、、笹ではなく、何やらキラキラと沢山の金銀が美しく、よく見ると折り紙を利用して「流れ星」風に短冊がデザインされていました。

     本来は、笹の葉に願いを書いていたものが、短冊が用いられるようになって、その縦長の四角い短冊からデザインが新たに変更されて「魚」になり、更に「金銀の星」に進化して、これからも、時代と共に感性が鋭く進化して行く事でしょう。

※ たどたどしい字に熱意と力が溢れている。何処の誰が書いたのだろうかと思いながら、短冊を撫でながら「キミなら出来るよ!」と思わずエールを送ったーーー。

     気が付いたのですが、、そう言えば、七夕に食べるものって何かありましたっけ? 3月3日は雛あられ、5月5日は柏餅、、 なのに7月7日って何?  ニュアンス的には少しズレるかも知れませんが、「そうめん」を食べていた事を思い出して、調べてみました。

     すごく起源は古いのですが、「平安時代にはすでにそうめんの原型を七夕に食べていた」という記録が残っていて、その原型は『索餅(Saku hei)』という中国から伝来したドーナッツをおしぼりみたいにひねったような小麦粉と米粉を練って縄の形にしたお菓子で、日本名では「むぎなわ」と呼ばれていました。

     この「索餅をお供え物にした」、という記述があるのが平安時代で、和名での「麦縄」(Muginawa)が、いつの間にか「索麺(Sakumen)」とも呼ばれるようになって、それが現在のような白くて細い「そうめん」に変化したというわけですが、これがなぜ七夕に食べられるようになったかというと、「索餅」(Sakuhei)のふるさと中国の風習と関係がありました。

     古代中国では、7月7日に亡くなった帝(Mikado)の子が霊鬼神(悪霊の邪神)になって熱病を流行らせ、それを鎮めるためにその子の好物だった索餅を供えて祀るようになったことから、7月7日に索餅を食べると無病息災で過ごせる…という伝承となり、それがやがて奈良~平安時代頃に伝わった七夕と共に日本でも中国に習って索餅を食べていたことが判明しました。

     無病息災を願って、日本ではその後、前述のように索餅は索麺となり、それがそうめんになって、日本の七夕にはそうめんを食べる風習が残っているわけですから、今年は大いに意識して「無病息災」を祈りながらそうめんを頂くことに致しましょう。

     昨今は、夏の国民食となっている素麺ですが、つい先頃まで、主に習慣として素麺を食べているのは仙台などの東北地方であり、なぜ全国的でなかったのかが定かではない時代がありました。素麺が身近でよく食べられる夏の食べ物だったのは、案外、七夕に由来していたのではないかと言う気がして参ります。

     そうめんを白い糸に見立てて、七夕に機織りが上達するように願って食べたり、そうめんを天の川に見立てて食べたり、織姫と彦星を繋ぐ雲の糸として、彼らの出会いを願いながらそうめんを頂くのも素敵な事です。

天平10年(西暦738年)7月7日。

     『続日本紀』によると、在位14年目を迎えた聖武天皇(Shoumu Tennou)は時の歌人を招き、西池の宮で「詩宴」(歌を詠む会)を催しています。

     歌人としての名声を轟かすには、まだ若い大伴家持(Ohtomono Yakamochi)は、この名誉ある宴(Utage)に招かれるわけもなく、それでも宮中で催されている「詩宴」を想像しながら家で独り天を仰いでいました。この年の宴の後、家持が21歳の時、「内舎人」(Udoneri : 天皇の警護官)として宮中に仕えるようになるわけですが、ひとりで詠んだ歌が遺されています。

~ 織女(たなばた)し 舟乗りすらし まそ鏡
  清き月夜(つくよ)に 雲たち渡る ~

     「今しも天の川に、織姫が彦星からの迎えの舟に乗って漕ぎ進んでいるらしい。清らかに月の輝くこの晴れた夜に、雲が湧き上がってぐんぐん広がってゆく」と。この頃まで、七夕は中国式に女性の方から男性に会いに行くのが通例でしたが、この歌のように男性から女性に逢う為の算段をする日本式に変わったと思われます。

     歌の本意は、~ 彦星からの迎え舟が、向こう岸に着き、織女はついにその舟に乗って共寝の一夜へ〜 となるわけですが、織女の乗る舟によって起こされた水しぶきが霧となって雲を湧き上がらせているという描写が見事で、迎え舟についに乗れた織女の喜びや、織女を舟に乗せることができた彦星の喜びを見事に詠い表しています。

     やはり、七夕は女性が主役の5節句のひとつだけに、「裁縫などの技能向上を織り姫に願う日」ともされているわけですので、現代でも女性が中心になって、もっと盛り上げて戴いても良いのではないかと願う次第です。

※ 果てしない宇宙の営み。毎年訪れる天体ショウに子供時代の夢に思いを馳せるのも悪くない。せめてイラストでも描いて、子や孫たちに供するというのはどうだろう。幸い、恰好のサンプルを提供してくれたイラストレイター氏に感謝ーーー。

     天にある「天の川」も、地上に雨が降る日は洪水で水が溢れるらしく、結局、1年に、たった1度の逢瀬もままならないことから、七夕に降る雨は「酒涙雨」(Sairuiu )と称されているわけですが、七夕の日の雨は、つまり、織姫と彦星が流す涙というわけです。

     ちなみに七夕飾りの風習は江戸時代から始まり、日本だけの風習と聞きました。2月のセントヴァレンタインデーが世の中で話題になり出した60年近く前の頃、筆者は中学生でしたが、なんで、この日がヴァレンタインデーなのか、当時は意味不明で、7月7日の方がロマンがあって良いと思ったものでした。「夏なので、チョコレートが溶けてしまう問題があるからだろう」ぐらいにしか思っていなかったのです。

     今、世界を見渡すと、台湾や中国、シンガポールではヴァレンタインデーと同様に、7月7日は男女がプレゼントを交換する日となっていました。

     昨今の地球温暖化の影響で、ますます、天の川を見渡すことが至難の業となっている折り、遠い夜空に想いを馳せながら、大切な人に贈るプレゼントを思案するのも粋な過ごし方かもしれません。

     日本古来の正しい風習では、『七夕の願い事は家族全員で短冊に書き記し、前日、7月6日までに笹に飾り付けよ!』と、古い文献にも認(shitata)められています。

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

   

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