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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)8月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その31
〜高島嘉右衛門さんの事 その(8) 〜

嘉永2年 (1849年)、17歳を迎えた清三郎(後の2代目嘉兵衛・高島嘉右衛門)は、第6子として生まれたものの兄が皆、夭折(you setsu)した為、父・薬師寺(遠州屋)嘉兵衛にとっては自慢の跡取り息子であり、才能豊かな遠州屋の若旦那として立派に成長していました。

南部藩江戸屋敷御留守居役として新たに赴任した井澤彦兵衛は、かねてから遠州屋に対する願い事を秘めて赴任して来た節があり、やがてそれは南部をはじめとする鉱山の開発という一大事業であった事が判明します。

天保4年の大飢饉を嘉兵衛に救われた南部藩は、その後も続いた飢饉もなんとか乗り越えたものの、田畑に頼る財政リスクを少しでも回避し、藩の経済を安定させる為にはどうしても地下資源の開発が重要と考え、信用厚い嘉兵衛に加えて、近年、噂の息子・清三郎を擁する遠州屋こそ南部藩念願の鉱山開発を任せるのにふさわしいと判断して、白羽の矢を立てていました。

嘉兵衛を男と見込むたっての願いとあっては断ることも出来ず、「早速、現地視察を、、」と言っても、江戸から遠い南部藩の、そのまた広い領地に点在する鉱山の視察は想像を絶するものがあるわけで、危険な山道を分け入るという事だけでも一大決心を要した嘉兵衛は、江戸の店のやり繰りを清三郎に一任するや、即座に、少数の供を従えて奥州路を北上します。

江戸から臨む奥州路は東海道とは大差のない長閑(nodoka)さながら、交通網が整備されている現代とは異なり、やがてそれは想像を絶する過酷な旅へと変貌します。南部盛岡から宮古街道へ入り、30里(117.8km)を越える頃には、道筋はその様相を一変させ、断崖絶壁の急峻な山道を連続して上り下りするなど、一行は修験道の行者の様相を呈して、視察目的地のひとつで、後に清三郎と鉱山開発に着手する事になる境沢(Sakai-zawa)に満身創痍でたどり着きました。

鉱山は素人同然の嘉兵衛でしたが、そこで目にしたものは、全山が鉄の塊で出来ているような宝の山そのもので、斜面の土を採取して水でサッと洗っただけで手には砂鉄が残る程で、高温の炉で焼き固めれば良質の銑鉄が取れることが必至との実感が湧き上がって来ます。

驚いた嘉兵衛が更に周囲を見回すと、鉄の塊のような石が剥き出しでゴロゴロ転がっており、その磁力は強力で、金属を少し近づけただけでカチッと吸い寄せるように付着するし、分離させるには結構な力を要することから、既に有名だった南部鉄器の品質が良い理由に納得して商人の目に変貌した嘉兵衛は、その場所が人も住めない山奥である事を一瞬忘れかける程の興奮状態でした。

明治以前から、南部藩・尾去沢(Osarizawa)地域には、東に西道、五十枚、南に赤沢、長坂、槙山、西に元山、田郡、北に崎山などの金山や銅山があり、これらの鉱山は、それぞれの開発の年代も異なっており、相互の結びつきもないまま幕末まで別々の鉱山とされていたのです。

※史跡として現代に残る尾去沢鉱山3景。
鉱山経営の夢は断念せざるを得なかったが
高島嘉右衛門の若き日の思いが現代に蘇る。
豊臣秀吉による天下統一の総仕上げが奥州仕置(おうしゅうしおき)だった。

現在は秋田県鹿角市(Kazuno-shi)として位置し、史跡として保存されている尾去沢鉱山の歴史は古く、和銅元年(708年)には尾去沢銅山発見の伝説が残されているし、天平21年(749年)には尾去沢田郡で産出された金を朝廷へ献上したと伝えられているほか、文明13年(1481年)の「大森親山獅子大権現御伝記」によれば、この年、獅子沢、赤沢でも銅が発見され、更に天正18年(1590)には豊臣秀吉が「東北仕置」を行った結果、尾去沢の諸鉱山は正式に盛岡南部氏の所領となっています。

ちなみに「東北仕置」とは豊臣秀吉による奥羽両国の和平や和睦といった政治的な関与の事で、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始され、宗洗は天正16年までの3年間に3度、奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行いました。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示した結果、奥羽の平和の実現へ大きく前進した為、秀吉は天正17年1月に政宗に書状を送り、天正17年前半の上洛を求めましたが、その天正17年の5月に政宗は蘆名(Ashina)領の会津へ侵攻した為、秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを告知して、11月、北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆し、真田領・名胡桃へ侵攻したことをきっかけに、翌春の北条氏の征伐を意図した東国への征討軍派遣のキッカケを得たのです。

勿論、歴史書や伝聞を紐解いて、嘉兵衛はこれらの歴史的背景を把握していた事は言うまでもありませんが、視察の旅の往復3ヶ月以上に及ぶその帰路、嘉兵衛の足取りが軽かったのは、一連のこの大事業を清三郎と共に歩むことを決意していたからに他なりません。清三郎と呼ばれていた青年期を締めくくるには、鉱山開発は格好の大事業で、「挑むべき最初の関門」だった事は確かです。後年、高島嘉右衛門として、それまでの人生で、いくつかの大きな問題にぶつかり、乗り越え、多くの偉大なる友人達との出会いや援助のお陰で事業が大成されて来た実感を語る際の最初の大きな関門として語るのは、決まってこの南部藩鉱山開発事業のことでした。

さて、話を戻して、まだ若年の清三郎は現地に行く決断を父の嘉兵衛に迫られて決断するわけですが、翌年春の近江屋の精鋭部隊の到着準備を意図して嘉兵衛と清三郎が先遣隊として江戸を出発したのは弘化(kouka)4年9月のことでした。雪に埋もれて動きが取れなくなるのを避けての、忙しい旅立ちでした。

多くの人々を使い、難題にぶつかりながらも悪戦苦闘の末の鉱山開発をやってのけた二人は、3度目の厳しい冬を迎えて、清三郎の目には、そっと忍び寄る父・嘉兵衛の隠せない老いの影を感じると、嘉兵衛だけを江戸へ戻すことを決意します。嫌がる父親に必死で駕籠を手配を済ませて、険しい山道を峠まで見送った清三郎は、今生の別れの覚悟で堅く嘉兵衛の手を握ると、男泣きに泣きながら、遠く、山を降りて行く駕籠をいつまでも見送っていました。

鉱山の開発が国家的事業が常なのは莫大な資本投下を余儀なくされるからですが、南部藩からの嘉兵衛への補助は年間五千両(現在の価値で5億円)程でした。しかし、とてもとても足りる金額ではなく、 江戸・遠州屋の私財を投じて赤字を埋めているのが実情だったのです。

勿論、溶鉱炉の開発をはじめ、採鉱の効率化によって一気に挽回できる利益をあげられる可能性を秘めているのが鉱山開発なわけですが、資金がかさむ事に加えて、肝心の南部藩の財政が乏しく、翌年の補助金の打ち切りの通知を受け取ったのを期に、清三郎は10年後、50年後の可能性を秘めながら、遂に、撤退を決意します。父との峠の別れから半年後の出来事でした。

加えて、清三郎の撤退に至る決断の背景には、死期が近づいた父・嘉兵衛からの帰郷を促す矢のような催促に加えて、屋台骨だった遠州屋の五千両(5億円)に及ぶ負債の発覚でした。どっぷりと父子で山に入り込んでいた期間、遠州屋を任せていた義兄・利兵衛による放蕩三昧(houtou zanmai)による借金の山がそれでした。

事は一刻を争う緊急事態に、急いで山を下りた清三郎は、南部藩への挨拶を済ませたその足で、早朝、深夜の区別なく江戸・遠州屋を目指して駆け戻りの旅の途についたのでした。(続く、、、。)

Tommy T. Ishiyama

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