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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)5月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その50
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(27)

  イギリス公使ハリーパークス(Sir Harry Smith Parkes)が抱えていた難問は、焼き討ちされた公使館再建の費用の事でした。孫一郎の巧みな通訳によって、パークスの本音を察知する事が出来た嘉右衛門は、これまで無事に均衡が保たれて来た日英の友好関係が悪化することを幕府も危惧している筈と読み、パークスに幕府との直談判を進言します。

     嘉右衛門の説得は実に巧みなものでした。それは、公使館新築の費用に関して正式に公使として幕府に一時的な立て替えを求める事と、その返済は無利息の長期年賦払いを願い出るというもので、幕府の立場を考えると、そう難しい話ではない筈と進言したのです。嘉右衛門の交渉案に感服したパークスが、満面の笑みで握手を求めるために椅子から立ち上がるのを見ていた孫一郎は、即座に「嘉右衛門の旦那、おやりなすった」と小躍りしながら、「旦那っ、シェイク ハンド、握手、握手」と、身振り手振りで嘉右衛門を促しました。

※Sir Harry Smith Parkes (1828年2月24日ー1885年3月22日)
幕末から明治初期にかけて18年間、駐日英国公使を務めた。幼くして両親を亡くし、2人の姉と共にバーミンガムの退役海軍将校の叔父に引き取られて寄宿学校に学ぶ。その叔父からイギリス海軍のネルソン提督の話を聞かされて育つも9歳のときに死別。10歳からはキング・エドワード・グラマースクールで学び、13歳の1841年、宣教師のカール・ギュツラフに嫁いだ従妹や姉が暮らす清のマカオに赴く。

中国語の勉強をするかたわら、翌年、14歳で英国全権ヘンリー・ポティンジャー(のちの初代香港総督)の秘書で通訳のジョン・モリソンのもとで働く。故に、若きパークスは1840年から42年まで、清国によって北京に投獄されるなどアヘン戦争を目の当たりに見たほか、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印にも立ち会っている。頭角を表したパークスは、日本領事オールコックに認められて1864年38歳で上海領事就任。翌、1865年(慶応元年)、前年の四国艦隊下関砲撃事件で主導的な役割を果たしたオールコックだが、日本との全面戦争を危惧していた英国政府によって領事を解任され、パークスが後任として横浜に到着。ジャーディンマセソン長崎代理人トーマス B. グラバーとも密接な交流があり、その仲介で鹿児島を訪れると、藩主・島津茂久とその父・島津久光、西郷隆盛、寺島宗則等と会見している。1867年(慶応3年)、大阪で徳川慶喜に謁見。この時、慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と絶賛していた。1868年(慶応4年・明治元年)鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北や慶喜の大坂城脱出を知ったパークスは戊辰戦争への局外中立を宣言。京都で三条実美、岩倉具視と会見、暴漢の襲撃に会うも難を逃れて天皇にも謁見した。反幕・新政府の東征軍が江戸に接近している折に横浜へ戻ると横浜の治安維持にあたる一方、慶喜処分案救済や江戸無血開城に大きな影響を与えた。大坂で明治天皇に謁見し、新政府への信任状を奉呈するなど、諸外国で最初に新政府を承認したイギリスの存在は、現在の日本にも大きな足跡を残しているーーー。

     さて、嘉右衛門の案による幕府の説得など、イギリス公使館の建築計画は、早速、実現の運びとなりました。幕府が割賦延べ払いを承諾して立て替える事になった建築総費用は7万5千ドル。パークスを嘉右衛門に紹介した建築家ビジンはその一割を設計料として受領し、工事はビジンの指導で嘉右衛門が請け負うこととなりました。幕末の浜っ子、17歳の横山孫一郎の名通訳のおかげで円滑に運んだ工事竣工の当日、晴れがましい気持ちで在横浜イギリス公使館を見上げるパークスが自分に言い聞かせるように漏らした言葉は、「実に、間違いない日本一の大工に出会ったものだ。日本人がこのような洋館を建てられるとは夢にも思わなかった」との賞賛に溢れていました。

     遡ること、1866年(慶応2年)、2代目公使ハリーパークスが泉岳寺前の仮公使館を残したまま、横浜に公使館を新築することを決定した際、横浜外国人居留地のイギリス系アメリカ人の建築技師で、後に『横浜西洋館の祖』とも呼ばれるようになるブリジェンス(Richard Perkins Bridgens)も横浜仮公使館と横浜領事館の設計に参加することになったわけですが、それは豚屋火事の後、居留地の建物を耐火性のある木骨石貼りで再建した実績を買われたのが理由でした。

     この「木骨石貼り」(stone casing)は耐火構法として元来日本にあったものですが、より簡便な「なまこ壁」の外装による英国公使館の建物を高島嘉右衛門が実践し、そして、「木骨石貼り」による領事館の建物を2代目清水喜助が建築を請け負うこととなり、ブリジェンスが施工監理を担当した経緯がありました。

※1867年、英国政府が極東在外公館施設建物の本格的営繕のため、日本に派遣したクロスマン少佐(William Crossman)の修正案によって横浜公使館と領事館が完成した。また、明治維新後、多くの大名屋敷が空になると、パークスは恒久的な公使館用地として江戸城至近を物色し、1872年5月(明治5年)、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた1万2千306坪を低賃料でほぼ永久的に貸与されることとなった。この現在地、東京都千代田区1番町に、駐日英国大使館(1905年/明治38年に公使館から大使館に昇格)が毅然と今日の日本を見据えているーーー。

     戊辰戦争時に、東海道を進軍して来る幕府討伐軍を横目で眺めながら、横浜が極めて安全な地であっ たことは、生糸の豪商たちがそれぞれの国元に送った書状からも明らかですが、それらはパークスをはじめとする各国の公使や領事の存在、そして、軍隊が横浜山手の居留地に駐留していたことに由来していた事は確かです。

     さて、通訳に横山孫一郎という語学の達人を得た嘉右衛門は積極的に居留地の外国人とのコンタクトをはかり、イギリス公使館新築を皮切りに、スイス領事館の建設依頼も舞い込み、加えて、積極的な異人館建設を進めた結果、横浜の異人館の建築はビジンと嘉右衛門の独占事業となりました。その利益は実に15万両にも及ぶ大きな結果で身を結びました。

     まさに、横浜にイギリス公使館が完成した1867年(慶応3年)を中心とした慶応元年(1865年)から慶応4年(1868年、9月8日から明治と改元)の、いわゆる慶応年間の4年間は、高島嘉右衛門にとって人生が開花した瞬間であると同時に日本が大きく動き始めた瞬間でもありました。横浜だけでなく、神戸の領事館建設などにも手を染めていた嘉右衛門は、更に、英国公使などの周旋によって全国の灯台建設を一手に引き受ける元受けとなっています。

     このような多忙極める中でも、未来を見据える嘉右衛門の眼力は一層輝きを増して行きます。横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館が無い事に目を付けた嘉右衛門は、将来の布石とも言うべく、豪華な和洋折衷の大旅館「高島屋」を尾上町に建設し開業します。元来、建築土木請負というインフラを生業として爆進してきた嘉右衛門からすると、旅館経営というサービス業は今までの嘉右衛門の仕事ぶりからイメージが異なりますが、この高島屋旅館が、嘉右衛門の思惑通りに、更に、大きなターニングポイントとなって行きます。その全貌とは、、、(続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

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