*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
2020年(令和2年)4月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!
【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その24
〜高島嘉右衛門さんの事 その(1)プロローグ〜
その道の学者諸氏の言葉を借りますと「歴史というものは、これが歴史だと、特別に残されているものではなく、人々が語り伝える言葉や事象そのものが歴史となって変化して行くもの」という事になるようです。
つまり、勝者が語る一連の記録やストーリーが、時の流れとともに言葉が少しずつ変遷して行って歴史となるわけで、それはやがて、過ぎ去る大きな時間に比例して削ぎ取られて行き、最後は数行の文字が語る記録になって残るもの。それが歴史で、例えば「明治維新」という言葉も歴史区分や公の単語として定められた表現ではなく、明治政府が積極的に「明治維新」「ご維新」の用語を使用したという記録も無いわけです。
この「明治維新」という表現も、後の人が時代を振り返った時に自然に湧き上がって来た評価みたいなもので、明治21~32年頃の歴史関係の書籍や教科書の目次にやっと登場してくる他、明治37年になって、初めて国語教法の本文に登場していますので、だいぶ時代が進んでから定着した呼称だと言うことが判ります。まさに、歴史と言う絶える事なく流れ行く川の河畔に佇(tatazu)み、日々を見守っている私たちこそが歴史の語り部であり、歴史の守り人という事になるのではないでしょうか。
確かに、現在というものが存在する根拠や、自らが絡んだ物象に、これまで知らなかった過去から続くご縁が判明した時は、驚きと同時に、絆というかルーツを知った喜びが湧き上がって来るわけですが、自らの人生との関わりを知れば知るほど、奥へ奥へとその興味を掘り進めたくもなって参ります。
その歴史も、100年経ち、1000年を経て、さらに1万年の経過を見る頃には、現在、興味を抱いている諸事万端は、もう、誰も見ることがない遠い遠い過去の資料でしかなく、それが少しでも多く残されていて、興味を持ってページをめくる人類が1人でも多く居ることを願って止みません。
思いますのに、私たちが今生きている現代は、横浜開港150年、160年、170年と容易に数えられる程の、実に身近な過去の時代に大きな変革があったわけで、武士の世から、一気に現代へ突き進んできたその急激な変化も解りやすく、眼を見張るような興味が山積しているが故に、少し調べれば全てが解るという気楽さが魅力になっています。
そんな自覚から、60年以上も前、筆者が幼い時代の事で覚えているのは、祖父に連れられて良く立ち寄った場所があって、それは市電の高島町停留所で降り、交差点と貨物線の踏切を渡って、しばらく歩いた突き当たりにあった海の景色と高島埠頭でした。
思うに、大桟橋入り口に現在もビルが残る「ジャパン・エキスプレス社」の創立に深く関わった祖父にしてみれば、親族第一号の男孫である筆者に、自らが携わった世界の海(貿易・海運業)に興味を抱かせたかったのかも知れません。だから、時間があるたびに市電の便が良かった高島埠頭を訪れては、子供心に興味があった港湾作業用の特殊車両に乗せてくれたり、分厚い黒革表紙の世界地図や難しい海図を開いて、世界の国々と有名港の位置、その国の特徴、言語や面白い風習などを説明してくれたのかも知れません。
※交通の要所にあった「高島町」、、その電停のある日。
左折して保土ヶ谷橋方面へ。他の路線は右折して横浜駅へ。
右の車両は「三渓園前」行き。桜木町〜馬車道、元町から名物のトンネルを通り、小港で降りて潮干狩りの人々も。
※運賃15円の頃の東京オリンピック(1964年)記念乗車券。
横浜の子供達も大好きだった「市電」。
東京から訪れた人が「横浜にも都電が走っている」と言うと、ムキになって、「市電だよ」と訂正した。
明治37年に横浜電気鉄道としてスタートして、、大正10年に横浜市電気局(現・市交通局)が受け継ぎ、市民の足として路線網が拡大され、活躍した。
惜しまれて全廃になる昭和47年(1972年)まで市民に愛された。
さて、後年、埋め立て工事が続いて陸地になった、祖父との当時の散歩エリアを歩いてみました。高島埠頭の一号桟橋があった場所は、旧横浜ジャックモールイーストの東側にあるサンクスの付近一帯に様変わりし、二号桟橋は高島中央公園南東側にある高島中央公園南交差点となり、大好きだった三号桟橋は現在の臨港パーク入口の交差点エリアになっていました。
散歩に誘ってくれた祖父の期待に反して、結局、筆者が興味を持ったものは海釣りと世界の国々の位置と国旗、そして横浜に名を残している「高島さん」でした。「横浜を作ったスゴイ人だった」と自慢げに話す祖父の言葉は印象的でしたから、「高島さん」は小学校時代は勿論、中・高・大学時代も、そして社会人になってからも、ずーっと頭の中で増殖し続けて、何か新しい資料に出会うたびに読みふけったものでした。
※山手資料館・横浜山手に遺された貴重な洋館。
戸部村の大工によって建てられ、幸いにも関東大震災を免れ、その後、勝烈庵や横浜十番館のオーナー・故本多正道氏が買い取り、1977年(昭和52年)現在地に移築した。山手十番館の敷地内に建っていて、貴重な歴史資料が満載。特に、高島嘉右衛門に関わる資料コレクションは圧巻で、山手資料館のその名が示すように、横浜開港期を偲ばせる豊富な資料を展示公開している。
その高島嘉右衛門(Takashima Kaemon)さんが凄いのは、まず、投獄から解放され、江戸払いという追放による自らの行き先を横濱に決めた事と、後年、誰よりも早く日本政府に対して鉄道の重要性を訴え出た事で、現在のJR桜木町の一帯、「野毛町海岸」と呼ばれていたエリアを横浜の停車場(初代横浜駅)にするという案から、青木町(現在の神奈川区青木)と石崎(現在の西区石崎)間のエリアを埋め立てて鉄道敷設の線路用地とし、残りの部分の土地を貸与するという条件付きの入札を、既に実業家として成功していた高島嘉右衛門さんが自ら落札した事でした。
しかも、落札後は突貫工事によって工期内早々に工事を竣工させると、現地に自らの姓から「高島町」の名を記し、後世に、筆者をはじめとする多くの市民に自らの名を知らしめた事は偉大な足跡に他なりません。
その高島嘉右衛門が江戸三十間堀の商家に生まれたのは1832年(天保2年)11月22日の事でした。その4年後、1836年(天保6年)に土佐で産声を上げたのが坂本龍馬という年回りになります。時代の風雲児が2人、果たして歴史の織りなす綾の何処かで出会うことがあるのでしょうか?出会うとしたら、その可能性は嘉右衛門の働きっぷりからすると、横浜以外には考えられませんので、そのあたりも楽しみにこの項をお届けしたいと思います。
Tommy T. Ishiyama