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2023年(令和5年)3月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

【特集】心安らかに人生を見つめ直す旅への誘(izana)い〜(5)

 

     横浜港大桟橋の出船入船が目に見えて賑やかになってまいりました。

     日本に夢を馳せて訪れる多くのエトランゼ達が眺めるヨコハマが、どうぞいつまでも美しい記憶の世界の中心に残されていますように。

※ 〜♪されば港の数多かれど、この横浜に優るあらめや♪ 今は百船(momo-fune)、百千船(momochi-bune)、、〜♪ 横浜市歌の歌詞そのままに大発展を遂げている今日の横浜港は、日本の海の玄関口としてその存在を不動のものにしているーーー。

     さて、今日、3月20日は二十四節気、つまり、1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けた24の節(setsu)で言うところの「春分」であると同時に七十二候(二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた物語性のある期間のこと)では「雀始巣(すずめはじめてすくう)」で、つまり、昼と夜の長さがほぼ同じで雀も巣作りを始めるような長閑(nodoka)な春のお彼岸の中日。

     仏教が表現するあの世の「彼岸」(higan)と、私たちが住む現世「此岸」(shigan)を一直線に結んだように、今日は太陽が真東から昇って真西に沈む事から、タイムトラベラーズのように両方の世界を行き来し易いと考えられた事と、ご先祖様をより身近に感じられる特別な日と言う事からお墓参りには最適な日ということになっています。

     現世と来世を行き交う旅にはロマンがありますが、 やはり現世を旅した経験が乏しいと、方向感覚は勿論、旅本来の楽しみを倍増させてくれる嗅覚も鈍りがちになる不安があることは否めません。

〜♪ 一冊の本があれば地球の裏側へ旅することが出来る♪

     1972年(昭和47年)のテレビ神奈川開局当時に放送されていた横浜の老舗書籍文具店・有隣堂のこのCMソングは更にこう続きます。

〜♪ 知らない世界へ向かって旅立とう、今~♪

     かれこれ50年以上も前の話になるわけですが、楽曲が色あせないばかりか、時を経ても、歌われている本来の意味が実感を伴ってますます鮮明に浮かび上がって来て驚きを禁じ得ません。

     同様に、「伊勢ブラは港へ続く散歩道」も記憶に鮮明に残っている横浜伊勢佐木町のCM用キャッチフレーズですが、こちらは現在のアールエフ・ラジオ日本(1981年に社名変更)が、1958年(昭和33年)に野毛山に開局して「ラジオ関東」(通称 ラジカン)を名乗っていた時代の名残りと郷愁を感ずることが出来る名コピーでした。

※ 往年の「ラジ関」こと、ラジオ関東の伝統を引き継いでいる「アールエフ・ラジオ日本 / AM1422・FM92.4」。 筆者も毎月2回、音楽番組の収録にお邪魔している。 先人諸氏の息吹を感ずることが出来るこの第1スタジオは世界を旅する宝船のようでもあるーーー。

     まさに、往年のウィークデーの夜は首都圏の若者たちに圧倒的な支持を得ていた「ラジ関」の独擅場でした。 ヒット番組だった「アメリカン TOP 40」や「今日の話は昨日の続き〜今日の続きはまた明日」の富田恵子の有名なMCがピタリと決まっていた人気番組「昨日の続き」は、永六輔、大橋巨泉、前田武彦、はかま満緒等が二人ひと組になってO.A.された史上最初のトーク番組でした。 続く、英国生まれのケン田島が流暢(ryu-cho)な英語を操り魅力的だった番組「ポートジョッキー」も、記憶の世界の中心に、今も、斬新に輝き続けています。

     特に、この「ポートジョッキー」はボーッという船の霧笛の音にビリー・ボーン(Billy Vaughn)楽団の「波路はるかに」(Sail Along, Silv'ry Moon)がフューチャーされた横浜らしいオープニングと、ナレーターのケン・田島氏のネイティヴな英語に森 純子アナウンサーの爽やかな進行が巧みにフューチャーされた音楽番組だった事から、首都圏の若者たちの圧倒的な支持を得て、その後に続く数々の深夜放送の先駆者的存在でした。

     筆者は、続く番組のモンティ・本多(後年は本多俊夫を名乗る)の「ミッドナイト・ジャズ」を含めたこれ等の一連の番組のヘビーリスナーでしたから、みなと横浜の夜にふさわしい異国情緒満載の番組を惜しげも無く発信していたこの首都圏最後発の放送局「ラジオ関東」をこよなく愛したものでした。

     その一方で、東京日比谷や銀座のロードショウ劇場に行くと、予告編に前後して必ず流れる劇場版CMに横浜山手の丘「元町クリフサイド」が登場するので、心の中でひとり、嬉しく 自慢でした。 そのキャッチコピーも「京浜間、最高のクラブ」。

※ 1945年、終戦から1年、、クリフサイドは横浜の地場産業だったシルクスカーフで富を築いた現社長・野坂哲也の父君が自ら会得していた欧米人のナイトライフ文化を横浜に、との目的で戦後の物資不足の時代に建てた高級サパークラブだ。 軍への供出で皆無だった鉄骨を一切使用していない見事な木造建築で「山手舞踏場」としてその歴史をスタートさせた。 この「クリフサイド」は数々の有名JAZZ奏者やミュージシャンを輩出し、銀幕でしか見たことのないスターや文豪、国会議員などの有名文化人が顧客としてリムジンなどの高級外車で乗り付けるなど、東京からお忍びで訪れる格好の夜の社交場だった。 元町ストリートから山手の代官坂を登って直ぐ、トンネルのある右手の脇道を入ると、少しずつ姿を現してくる雰囲気溢れる洋館の佇まいは周囲とは一線を画す不夜城のような存在感を今日も変わらずに放ち続けているーーー。

  日本人はオフリミットの、米兵を対象にしたクラブばかりだった当時の横浜で、日本人が生バンドで踊れる高級ダンスホールは一部の富裕層しか入れない憧れの高級クラブでした。 年齢的には筆者よりひとまわり上の元町や伊勢佐木町の先輩たちの縄張りでしたが、坂にはいつも高級車の行列が出来ていた横浜の有名ナイトスポットでした。

  在日米軍の施設が多かった当時の横浜はアメリカ文化の発信基地であり、ジャズ文化が既に浸透していましたから、大人だけでなく、新しい文化に敏感な若者たちも徐々にナイトクラブを利用するようになり、ジャズに陶酔して行ったのです。

     1950年代~60年代にかけて、後に「スカイライナーズ」を率いてテレビ界に華々しく登場する山手育ちの「スマイリー小原」が、自身のバンド「ブルーノートセブン」を率いて人気を博していた山下町の「ブルースカイ」や人気のナイトスポットだった「ナイトアンドデイ」と並んで、横浜を代表するナイトクラブとして名を馳せた元町の「クリフサイド」は、いわば戦後日本の社交界の先駆けであり、新時代の象徴として今日も山手の丘から発展する横浜を見守っています。

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Tommy T. Ishiyama 

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