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2024年(令和6年)6月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

モトマチのフェニックス 〜不死鳥の翼に乗って〜(12)
〜 好奇心こそが脳の活性化の原点に他なりません 〜

 新紙幣が約20年ぶりに発行されます。 発行時期は2024年7月3日に決定されており、「早く新札を見てみたい!」と楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。

 新紙幣の一万円札には渋沢栄一、五千円札には津田梅子、千円札には北里柴三郎が選ばれていますが国立印刷局のサイトによると以下の2点を考慮して人物の選定が行われているようです。

① 日本国民が世界に誇れる人物で、教科書に載っているなど、一般によく知られていること

② 偽造防止の目的から、なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること

 なお、これまでお札に登場した人物は神功皇后、板垣退助、菅原道真、和気清麻呂、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、日本武尊、二宮尊徳、岩倉具視、高橋是清、伊藤博文、夏目漱石、新渡戸稲造など現在発行されている人物を含めて計17名の皆さんとなっています。

 現在の福沢諭吉の肖像が意匠の一万円札は、新たに渋沢栄一の肖像へと図柄が変更されるわけですが、渋沢栄一は「日本近代社会の創造者」と呼ばれ、実業界で大活躍した人物です。 27歳のときに徳川幕府15代将軍である徳川慶喜の弟・徳川昭武に随行して欧州諸国を訪問し、近代的な社会制度を学びました。

 帰国後は商法会所の設立を行うなど、明治政府内においても大蔵省の官僚としてさまざまな政策の立案に関わったほか、明治維新後の国づくりに大きく貢献し、官僚を退任したあとは、第一国立銀行や東京証券取引所、東京商法会議所などの設立に尽力し、生涯で約500社の企業の設立に関わっています。

※ 筆者が若き日に暮らした英国は日本の近代文明の全ての開花の原動力となった。イングランドの南東部に位置する歴史的なChichesterの街はドーバー海峡に近い人気の避暑地でもある。筆者が縁を戴いたオックスフォード大学ビショップ・オター・カレッジは現在University of Chichesterに変貌しているが、日々を共に過ごした大聖堂(Chichester Cathedral)の勇姿は今日も健在だーーー。

 新一万円札の券面に記載される渋沢栄一の肖像は、70歳のときの写真を参考に描かれていますが、実業界の各方面で活躍したエネルギッシュさを表現するために60代前半をイメージして描かれているように見受けました。 また、新一万円札の裏面は、重要文化財でもある東京駅の丸の内駅舎が描かれているなど近代日本の象徴的な新券となっています。

 さて、皆さまは『奥右筆』(Oku-Yuuhitsu)という職務をご存知でしょうか? 奥右筆は江戸幕府の役職のひとつで、老中に次いで重職であった若年寄の支配下にあり、奥御祐筆(Oku-Goyuuhitsu)とも呼称されて、江戸城本丸の御用部屋を仕事場としていました。

 江戸幕府初期の頃より右筆(yuuhitsu)制度が存在していた事が判明していますが、室町幕府や豊臣政権以来続いている歴代の右筆の家柄の出身者によってこの重職が維持されて来たわけですが、徳川綱吉が館林藩主から将軍になった際には館林から右筆を連れて江戸城に入るや奥右筆の職を任じるなど、自身が発効する文書の作成などの全てを任せたのです。 この「奥右筆」に対して従来の右筆を「表右筆」と呼ばせるなど明確な区別が為されていました。

 奥右筆は当初、綱吉側近の数名でしたが、後の宝暦年間には拡大されて17名が職務にあたり、また、その後の職務拡大に伴って30名から最後は80名の規模で表右筆が運営されると、その中から特に優秀な者を奥右筆として任務にあたらせていたという記録が残されています。

 奥右筆が表右筆より重要視されていたのは待遇面からも明らかで、享保年間の記録では、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭の役高が300石の役料150俵だったのに対して、奥右筆組頭は役高400石、役料200俵と明確な差があり、一般の右筆においても表右筆が150俵の蔵米の給与だったのに対して、奥右筆は200石高の「領地の知行」という明解な区別がされていました。

 また、奥右筆は幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で特に重要な役職でした。 現在で言う政策秘書官にも近い存在でしたが、奥右筆の中には幕閣であった大老や老中と肩を並べて会議で自由な発言を許されていたわけですから重職です。 諸大名が将軍をはじめとする幕府の各方面に書状を出す際は、事前に奥右筆によって綿密にその内容がチェックされるのが常でしたから、奥右筆の匙加減(saji-kagen)次第で、書状が将軍に届くかどうかが左右される程の役職でした。 加えて、幕閣から将軍に上げられた政策上の問題についても、将軍の命令によって調査や報告を実行する職務権限が与えられていたので、その報告次第では幕府の政策変更が実施されたり、特定の大名に対して財政上の問題や人的な負担が求められたりする事態も発生するので、諸大名にとって奥右筆の存在自体が脅威でもあったのです。

※ 時代を飛び越えてゆくようにエールフランス機が独自の高度で今日も雄大なアルプスを真下に眺めながら飛翔して行く。多くの時代の接点がヨーロッパの各地に存在していることを知らしめるようにーーー。

 まさに、小生の人生の全てにも似て、オメガをはじめとするスイス商社時代も、ブランドビジネス全般に携わった英国商社時代、そして伊藤忠商事から、最後の余生を華々しく過ごした横浜元町〜自由が丘〜青山時代を通じて、仕事として一貫していたのは、まさに、この奥右筆的な仕事の連続だったわけで、その日々の全てが、CI(corporate identity / コーポレイト アイデンティティ)による企業としてのイメージコントロールとその維持だったわけですから、まさにやっていた事は全て奥右筆そのもの。 それに見合う禄高は一般のサラリーマンよりは優遇されていたものの、本人の感覚では高度な仕事に見合う程のものではなく、校訓『人になれ奉仕せよ』(Be a man, Serve the world)を実践して今日まで来たと言う事で良しと致しましょう。

※ 時の経過を停止させ、風の流れの中に全身を委ねる熱気球は、ある意味タイムトラベルのように知らない世界へ自分を誘(izana)ってくれる瞬間に似ている。航空機が離着陸時しか進入できない上空6千フィート(1828.8m)を維持しなから、航路の存在を探索しながら一気に高度1万2500フィート(3810m)の富士山越えの高さへ上昇すると景色以外の見えない世界がそこに存在している事が判るーーー。

 渋沢栄一の生涯を描いた2021年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」にも奥右筆が登場しました。 渋沢栄一は民部公子(Minbu-Kohshi / 前述の徳川昭武が官名の民部大輔に由来して呼ばれた別称で氏は徳川慶喜の弟、後に清水徳川家第6代当主を経て水戸徳川家を継ぎ、水戸藩第11代の藩主・藩知事を務めた)に同行してパリに滞在していたので鳥羽伏見の戦いの戦禍に巻き込まれずに済んだわけですが、従兄弟の渋沢喜作が慶喜に仕えて奥右筆を努めており、一橋家から幕府に入って出世しました。 当時の祐筆には役向きが二つあって、ひとつは表祐筆で今で言う内閣書記官長。 もうひとつが奥祐筆で、文事秘書官長と法制局長官を兼ねたような要職として描かれており、今、その勢力を知る我々には老中の困惑ぶりが手に取るように解ります。

 この渋沢喜作は、時の幕府陸軍奉行並みに出世していた旧新選組副長、土方歳三と函館戦争を共に戦い抜き、死地と悟った土方は単身、政府軍に真正面から切り込んで亡くなりましたが、喜作は生き延びて明治政府の大幹部として活躍しました。 時期は異なるものの奥右筆を務めた渋沢栄一と渋沢喜作、優秀な渋沢家一族の存在は明治の日本が必要とした時代の寵児そのものの存在だったのです。

Tommy T. Ishiyama

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