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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)1月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その42
〜高島嘉右衛門さんの事 その(19) 〜

寒波来襲の令和3年正月、祖父の形見のロングコート、インバネス(通称 とんび)を着て、人が群れなす時間帯を避けながら早朝の銀座を歩いて来ました。

高島嘉右衛門こと薬師寺清三郎が生まれ育った江戸三十間堀町は、現在、その住所を東京都中央区銀座4丁目と変え、7丁目までをその範囲として、銀座8丁目の御門通り沿いにひっそりと説明碑が建てられており、名称の由来となった三十間堀は京橋川から汐留川に向けて造成された堀川のことで、幅が55メートル(約三十間)あったことから三十間堀町と名付けられたそうで、現在は交通網に埋もれていますが、昔を偲ぶことが出来た事は良い思い出になりそうです。

更に、東京メトロ日比谷線に乗り、小伝馬町駅から徒歩2分、日本橋小伝馬町にある大安楽寺へ向かうと、その門前には十思公園(Jisshi-koh-en)が広がり、当地に、かつて江戸に存在した伝馬町牢屋敷があったとは思えない長閑(nodoka)な新春の光が満ち溢れていました。

大安楽寺には「江戸伝馬町処刑場跡」の碑があり、牢屋敷が明治8年に市ヶ谷へ移設されたものの、処刑場跡であることが嫌われて荒れ果てたままの同地を、五大山不動院の住職であった山科俊海大僧正が、名も無き者たちの供養を意図して1875年(明治8年)に大倉喜八郎や安田善次郎らの財閥の寄進を受けて大安楽寺が創建されたとの縁起を知ることが出来ました。

寺名の大安楽寺の「大」は大倉家、「安」は安田家の名に由来しており、1883年(明治16年)に高野山より弘法大師の像を遷座して新高野山の山号を称し、1954年(昭和29年)に東京都の史蹟指定をうけるに至っています。

現在の十思公園、常盤橋外に2618坪(約8639㎡)の広さの牢屋敷が設けられたのは天正年間で、それが慶長年間に小伝馬町に移って来たと考えられているわけですが、周辺は煉塀で囲まれ、堀が巡らされていて、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられているなど、まるで江戸版のサンフランシスコ・アルカトラズ島の刑務所を彷彿させるような頑健な備えが施されていた事が遺跡からも明らかです。

嘉兵衛(後の高島嘉右衛門)が、この伝馬町牢屋敷に投獄される以前には、高野長英(1804年-1850年)をはじめとする歴史上に名を残す多くの反幕府思想の武士や蘭学者等が安政の大獄で投獄され、処刑されており、吉田松陰(1830年-1859年 満29歳没) が同所で死罪を宣告され露と消えたのは嘉兵衛が投獄される前年の安政6年10月27日( 1859年11月21日)の事でした。

そんな時代背景があったわけですが、歴史の審査を待つまでもなく、後年、高野長英はその功績によって明治新政府から正四位を追贈され、また、吉田松陰も、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者たちに多大な思想的影響を与えたことは余りにも有名です

筆者が好む松蔭の言葉のひとつにこうあります、、、

『体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉(shitaga)う者を小人と為す』

新春を期して、ここに書き留めておきたいと思います。

※ 同地に佇む「吉田松陰終焉の地」の追悼碑

 

※ そして、ノミの後もクッキリと現在に残る伝馬町牢屋敷の石垣。

さて、嘉兵衛が脱獄騒ぎで負った傷の療養中に役人から聞かされた事は、妻・くら(神奈川・下田文吉の二女)の訃報でした。奇しくもその死は、あの脱獄事件の夜のことだったのです。

傷も癒えた後、佃島流刑という言い渡しを受けた嘉兵衛ですが、当時の佃島は東京湾に浮かぶ小島で、八丈島へ流すほどでもない軽犯罪者の流刑地でした。特に牢屋が設置されていたわけではなく、限られたエリアならば行動が自由だったことから、この地へ移って2日目に、最初に投獄されたあの伝馬町の牢で知り合いになった勝郎という男が尋ねて来くると、嘉兵衛は一連の命拾いの話を微に入り細に入り語りながら亡き妻を偲ぶと共に、投獄生活が始まった万延元年(1860年)、嘉兵衛29歳の頃を振り返りながら、延べ5年に渡る牢生活のおかげで「易経」に関する膨大な知識を会得した事や、それによって、元来、自分に備わっていたらしいある種の能力が呼び起こされた実感を得たことを熱く語り、世間から隔絶されていた期間の世の中の動きを、ありとあらゆる手段を駆使して学び直す決意を述べたのでした。

まさに、新たな日本の歴史を築くことになる事件の数々が、空に輝く星座の星々のように存在し、日本の各地で勃発していた事を真っ正面から見据えようと覚悟する嘉兵衛でした。

(続く、、)

 

Tommy T. Ishiyama

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