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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)12月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その63
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(40)       

     

     横浜元町ショッピングストリートに今年もクリスマスイルミネーションの穏やかな光が戻ってまいりました。街を行き交う皆さまの笑顔に灯火のおすそ分けをお届けしながら、誇りと自信を持って安全と安心を守り続ける所存でございますのでどうぞ宜しくお願い申し上げます。

※2021年冬、クリスマスイルミネーションと共に正面の入り口で輝くフェニックス。真西に向けて飛翔する「ジュピター」ーーー。

     当初、横浜の偉人・高島嘉右衛門を語るには「易」の勉強をしてからでなければ、その生きざまに触れることは難しいと自覚していました。故に、せめて嘉右衛門の存在と横浜とのご縁だけは知っておいていただきたいという願いから、2、3回の特集で終えるつもりが、既に40回。難解な易断に代えて、嘉右衛門が生きた時代背景に触れる事によって彼の心情を推察すると同時に、高島嘉右衛門の足跡が歴史という記憶の中に少しでも永く留まる事を願いながら執筆しております。最後の数回をもって、元来の元町コラムに戻る所存でございますので、もう暫くのお時間をどうぞ宜しくお願い申し上げます。

     さて、高島嘉右衛門による易断の代表的なものの一つに、自身が縁を頂いた佐賀・鍋島藩の名門、江藤家第21代目「江藤新平」(佐賀藩・権大参事 / 政治家 / 初代 文部大輔 / 初代 司法卿 / 佐賀七賢人のひとり)の「佐賀の乱」による悲劇がありました。

     和暦からの西暦変更(年月日)が明治政府・太政官の布告によってなされたのが『明治5年12月3日をもってグレゴリオ暦の明治6年1月1日とする』改革で、以降の和暦月日が現行西暦と同じになりましたが、その翌年の明治7年1月10日、征韓論に敗れた司法卿・江藤新平が失意のもとに横浜の嘉右衛門を訪れます。

     佐賀へ脱出する船出前の数日を高島屋に宿泊し、嘉右衛門と夜を徹して語り明かした江藤は、1月13日、嘉右衛門による易断と帰郷の制止を胸に秘め、横浜から海路、伊万里、嬉野温泉を経由して佐賀入りを目指しますが、不平士族の混乱を回避する為に長崎郊外での静養後、2月12日に佐賀へ入ると、同14日、佐賀征韓党及び憂国党の首領として擁立されます。その憂国党が武装蜂起したのが「2月16日の士族の反乱」、 世に言う「佐賀の乱」(佐賀戦争)の勃発でした。

     結末は、まるで悲劇の坂道を転げ落ちるように一気に進んで行きます。大久保利通が陣頭指揮を執る政府軍、東京・大阪の鎮台部隊を福岡県県境で迎え撃った江藤・佐賀軍は各所で攻防戦を繰り広げ、一時は政府軍を壊滅寸前まで追い詰めるものの、政府軍の圧倒的な火力の前についに戦場を離脱します。

「江藤新平君遭厄の地 碑」(高知県安芸郡東洋町大字甲浦)ーーー。政府軍から逃れた江藤は薩摩へ向かい西郷隆盛に薩摩士族の挙兵を懇願するも断られた為、次に海路で四国に上陸し、高知の武装蜂起を呼びかけた。しかし、これも徒労に終わる。上京して岩倉具視に直接の陳情を行なう事を決意して、高知脱出を試みた江藤が徳島へ向かおうとした矢先、此処、甲浦付近で捕縛され佐賀に送還された。それは自らが考案した写真による「指名手配の制度」による被適用者第1号という皮肉な結果となった。江戸を東京と改名したのも司法卿・江藤新平だった事をここに記録しておくーーー。

     一切の弁明も聞く事ない政府による一方的な裁判の結果、江藤に下されたのは士族にはあり得ない「斬首・梟首(Kyo-Syu)」という残酷な極刑でした。士族であり、立法者でもあった江藤に対して、死刑もそうなら、さらし首という猟奇的な刑の執行は不平士族、特に西郷を意識した内務卿・大久保利通による見せしめの「私刑」そのものでした。大久保は刑を執行するにあたり士族が保護されていた刑罰に関する法律を無視するかのように、あろうことか江藤新平を士族から除籍した上で処刑を断行したのでした。

     江藤新平の処刑獄門は新聞でも大きく取り扱われ、自らの易断が述べている悲惨な現実に身が凍る思いを禁じ得ない嘉右衛門でした。

    1874年に勃発した「佐賀の乱」は、その後の西南戦争(1877年)へ続く一連の「士族反乱」の先駆けとみなされていますが、 士族たちが反乱を起こした理由はさまざまで、特に大きな不平は士族に働く場の斡旋もなしに明治政府が推し進めていた「四民平等政策」にありました。

     後年、伊藤博文の外遊に際しても、嘉右衛門が自ら得た卦の暗示を読み取り、伊藤の満州への渡航を必死に止めた裏にはそんな江藤新平の無残な一部始終が嘉右衛門の脳裏にあったことは容易に想像出来ます。元来、伊藤博文と高島嘉右衛門はお互いに舅(Syu-to)、外舅(Gai-kyu)という立場での縁戚関係にありましたから、死地の暗示がある伊藤の外遊に際して、嘉右衛門は自らの易断の精度の高さを知るがゆえに必死な制止を試みた事は明白です。

     伊藤の長男・博邦が井上馨(Inoue Kaoru / 旧長州藩士 / 外務卿等を経て伊藤内閣の内務大臣・大蔵大臣)の実兄の家系から伊藤家に養嗣子(Youshi-shi)として迎え入れられており、後に宮内省に入省しますが、嘉右衛門の長女・たま子を妻として十男三女を授かり、好々爺としても嘉右衛門と博文がより親密に交流していた記録が残っています。その嘉右衛門による「急病を装っても出発は控えて頂きたい」との制止を振り切って、博文は自らの外遊を死地への旅と覚悟して、1909年(明治42年)10月、69歳の老躯に鞭打って満州への旅に赴いたのでした。

     無事の帰国を祈りつつも、横浜港の桟橋から遠ざかる船をいつまでも涙で見送る嘉右衛門でした。伊藤の外遊の目的はロシアの蔵相「ココフツェフ」とハルビン(現在の中華人民共和国黒竜江省 / 北朝鮮の真北に位置しソ連と国境を接する都市)で、今後の満州国について討議を重ねる為でした。

     姻戚というよりも激動の40年を共に戦ってきた嘉右衛門と博文は実の兄弟のような深い間柄でした。1832年(天保3年)生まれの嘉右衛門は9歳年下の伊藤博文(1841年 / 天保12年 生まれ)に対して、生涯、礼儀を失する事なく丁寧な接し方をしたと伝えられています。

     思えば、明治10年から11年にかけて「維新の三傑」と言われた英雄が次々と世を去りました。西南の役の最中に木戸孝允(享年45歳)が病死し、西郷隆盛(享年51歳 陸軍大将)は戦乱の中で自刃、江藤新平(享年40歳)を死地に追いやった大久保利通(享年47歳)も、その翌年、「紀尾井坂の変」で凶刃に倒れます。世の平安がまだまだ見通せない時代、政府は肥前(佐賀県北部・唐津市西部エリアのこと) の大隈重信を伊藤博文と井上馨(Inoue Kaoru)が支える不安定な三頭政治と化していた時代の出来事でした。

     ちなみに、この3人は醜聞の常連としても有名で、「大隈の金」、「伊藤の女」、「井上のその両方」というオチが笑えますが、井上もどちらか一つ程度だったら首相になれたかもしれないわけで、言い換えれば、「1級品の大久保に比べると少々不都合な2線級の3人が寄り添って日本を必死で動かそうとしていた」と言っては、少々、言い過ぎでしょうか。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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