2024年(令和6年)7月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!
モトマチのフェニックス 〜不死鳥の翼に乗って〜(14)
〜 「徒然草」は脳の活性化のサプリメント 〜
古来、書物に秘められている種々のパワーが存在しますが、見方、読み方によってそれらは千万変化します。 例えば、好奇心と共存しているのが「未知のものへの恐怖」ですが、それは、言わば怖いもの見たさの副産物のようなもの。 エイリアンや地球外生命体の侵略に遭遇した場合に感ずるものと似た恐怖なわけですが、それが発展して心の病などの重症になると厄介ですので気を付けなければなりません。
そんな場合、これらの病のことを心理学に準じて「強迫性心理障害」と呼び習わしているわけですが、それが社会的に蔓延している現在の状況を見渡すと、コロナより恐ろしい社会現象がそこに潜んでいる事が解ります。
※ 薄暮のヨコハマ。 昔を知る者にはその幻想的な美しさは夢と幻から出来上がっている絵画と錯覚するかも知れない。 それは現世で眺める未来の姿そのままのフラッシュバックと同じだからーーー。
現代の私たちに必要なのは、自分が何に恐怖心を抱いているのかを冷静に見極めておく事ですが、「恐怖」というものの本質を愛読書の「徒然草」から読み解いてみると、少しは気が楽になるような気が致しますので実践する事に致しました。
主人公の兼好法師は、本人が生きた時代には「徒然草」の作者としてより詩人として有名でした。 「徒然草」は江戸時代になって印刷技術や書籍の流通が発展したおかげで多くの人に読まれるようになるわけですが、兼好が生きていた時代には「ただの変な詩人」が描いたものとして有名だったのです。
しかし「徒然草」が人々に読まれるようになるにつれ、兼好はそれこそ本当に「すごく変な人」との評価が一般的になります。 詩人としての兼好は 「能書の遁世者(Tonseisha / 世捨て人)」として「太平記」に名を残しているわけですが、「能書」とはラブレターの代筆の事。 つまり、こづかい稼ぎの為に、人に頼まれて、ちょくちょく恋文の代筆などしていたわけです。 ただ、代筆の結果はあまりかんばしくなかったようで、このあたりはボク、、Tommy の若い頃の方が優れているわけです!
冗談はさて置いて、徒然草のある段落はラブレターの代筆をしていた兼好の「恋文の書き方教室」と理解すれば分かり易いと、やっと、そこまで、研究が進んで来ました。 そんな視点で見回すと、徒然草には「閑か」という言葉が良く出て来ます。 「しづか」と読むわけですが、別に「静か」と書き換えても問題はないのですが、何故「閑か」なのか少し深く研究もしたくなります。
※ つれづれなるままに、以前にも登場の妹からのお譲り懐石箸。 「お兄ちゃんの行く道を照らしてあげる」とでも言っているように北斗七星を拝したダイヤが涼しそうに輝き、旅への郷愁を誘う。 新盆ーーー。
さて、将来への不安、老後の不安など、不安にもいろいろありますが、「不安」は常に目の前に立ちふさがるものであって、けっして「過去」には不安を覚えたりしないものです。 「過去」は悔やむものであり反省するものであって、過去はその為にあると信じて筆者は今日まで生きて来たわけですから、時代を隔てて、もし、兼好法師とリアルに会う機会があれば、山積している矛盾点を納得行くまで彼と論じたいと思う次第です。
兼好法師が、晩年、自分で気が付かずに悩んでいた事は、ズバリ、人は不安定な「未来」にのみ不安をおぼえると言う事でした。 済んでしまった事はもう終わってしまった事で、水に流してスッキリとさようならで良いわけですが、そこが人間の凄いところで、人の精神構造は複雑に出来ていますから、『済んじまった事』と簡単には割り切れないほどの「過去」だって存在するわけです。
吉田兼好の場合、その「嫌な過去」が、また襲ってくるんじゃないかと不安になることがしばしばあったらしく思えるわけですが、しかし、それだって「過去」から導き出された「未来」への不安に違いないわけです。 人は「未来」にしか不安を抱かないから、トラウマになるほどの「過去」であるならば、それは不安でなく本当の恐怖と言う事になります。
未来への漠然とした不安を心から取り除くにはどうしたらいいか? の答えは二つあります。 それは「心を燃やす」ことと「心しづかにする」ことの二つ。 「心を燃やす」にはどうするか? 何かに没頭すればイイわけですね。 恋愛や仕事、趣味や子供の成長をひたすら見守るなど、、恋愛に没頭している間は「未来」はバラ色になるわけです。 ならない場合もありますけど。 仕事に精を出せば「未来」は収穫の季節になるはずですし、子供の成長を楽しみに見守るなら「未来」も楽しみになるわけで、趣味に没頭すれば「未来」は忘れていられると言う事です。
※ 徒然草に限らず源氏物語でも方丈記でも、古典に没頭すると、、過去から見た未来の世界がそこに展開されていることに気づき、異次元に居るという実感が湧いて来るーーー。
なにかに没頭して「未来」を忘れるのが「心を燃やす」なら、「心しづかにする」というのは「今」に浸りきる事という事になります。 自室にこもり、お気に入りの音楽をかけてその音楽に浸りきる。 あるいはマッサージを受けてリラックスする。 または、森林浴を楽しむ。 こころを燃焼する色事以外の快楽はたいてい「心をしづか」にしてくれますので、この「心しづか」の境地に誰の助けも借りずに自力で入り込もうとするのが「座禅」というわけです。
「未来」は不安なモノですから、不安は消えることなく死ぬまでまとわりつく事になります。 寝ていても未来への不安でいっぱいになり、夢に脅かされる。 そんな不安をなくそうという方法の一つが「心閑かに」というわけです。
「未来」になんの期待も抱かないでいられるなら、不安は消えるわけですが、でも、期待するから、、それを裏切られた時の事を思って不安になるんですね。
「希望」を捨て、「不安」を捨て、「心閑か」にしていられるなら、深い精神世界の奥底へも人は行く事ができる筈なんです。 しかし、「希望」はそうやすやすと捨てられない。 あざとく生きることにしがみつくのが生き物の本質ですから仕方ありません。 生きる事に余裕があるなら、誰でも未来に期待しちゃうってもんですしね。
そんな事ばかり考えてるのが兼好法師なんだと言うことが、やっと判ったんです。 私、Tommy が心理学に興味を持つようになった若き日の要因も徒然草だったことを再認識出来てヨカッタ~~♪です。
「明日という未来の、その訪れの準備の為に今日も太陽が美しく沈んでゆく」と考えるようになりました。 未来が楽しみに満ちていると心底思いたいからに他なりません。
Tommy T. Ishiyama