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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)7月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その53
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(30)

     後年、明治維新の指導者として大久保利通、西郷隆盛とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになるもう一人、参議・木戸孝允(Kido Takayoshi / 旧長州藩士・桂小五郎) が高島屋に滞在の折り、嘉右衛門を部屋に呼び、かつてから頭の中に渦巻いていた諸問題の中から「この男なら何とかしてくれるに違いない」と夜を徹して語り明かした一件がありました。

     それは、横浜の下水道設備に関する相談でした。

     非公式ながら、当時の横浜に漂う悪臭は居留民を始め在横浜の領事館、商館等からもクレームとして常に陳情されていた諸問題のひとつで、日本の表玄関であり、急速に発展した横浜ゆえに、さまざまな受け入れ態勢の不備が指摘されており、その難問のひとつが下水道問題だったのです。

     わずか十万坪のエリアに外国人居留地などが密集している為、水道の使用量に比較して下水道の設備が不完全だったことは否めない事実でした。その為に、悪臭漂うストリート各所は街のイメージを根本から損なう大問題だったのです。

     嘉右衛門は木戸孝允の期待に応えて、アメリカから蒸気ポンプを取り寄せると、汚水を海に排出する一方で、そこから派生する泥土を埋め立てに利用することを思い付くなど、下水道工事を100日間という短期間で完成したのです。これらの成果も明治新政府を担う人々をして「ヨコハマに高島嘉右衛門あり」との確固たる存在感を得るには充分なものでした。

※西郷隆盛と勝海舟の江戸開城に関する談判は、高輪の薩摩藩下屋敷で第1回目の会談が行なわれ、翌3月14日には田町にあった薩摩蔵屋敷で2回目の会談がもたれた。蔵屋敷の陸側にあった田町の薩摩藩上屋敷は戊辰戦争のきっかけともなった焼き討ち事件で焼失していたため、当時は江戸湾に面していた蔵屋敷が利用された経緯があったーーー。

※円形の石に記されている碑文は、表に「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」、裏に「慶応四年三月十四日 此地薩摩邸に於いて 西郷 勝両雄会見し 江戸城開城の円満解決を図り 百万の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり 平和を愛する吾町民深く感銘し 以て之を奉賛す」と記されている。碑文にある西郷吉之助とは西郷南洲(西郷隆盛)の孫。会見の地については諸説あるものの、高輪の薩摩藩下屋敷、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)が通説とされているーーー。

※薩摩藩上屋敷の古地図を見ると、庭池があった場所は写真上の碑がある「NEC本社ビル」(写真左右)付近で、ここで西郷は御庭番として島津斉昭公から直接の指示を受けていた。筆者の父が人生を賭してNECマイクロ波衛星通信事業部に勤務し、田中角栄氏の中国国交正常化の為の訪中と、その衛星中継を実現する為の大パラボラアンテナの現地建設を補佐したが、「西郷隆盛が鹿児島から上京して、殿様の島津公と仕事をしていた場所にお父さんの会社があるんだよ」と、幼い頃に良く聞かされていたことを思い出したーーー。

      少々時間を戻して整理しておこう。嘉右衛門が横浜で活躍する一方で、時は戊辰戦争真っ只中の明治直前、、争いが終結するまでの16カ月余の間、日本各地で戦われた内戦の総称を「戊辰戦争」と呼ぶわけですが、戦火が燃え広がる直前、1866年(慶応2年)に成立した薩長同盟に奔走した坂本龍馬は、その翌年、1867年(慶応3年)の徳川慶喜による大政奉還の1ヶ月後、自らの誕生日であった11月15日の京都河原町近江屋での惨劇(近江屋事件)で早逝します。その翌月、12月9日の「王政復古の大号令」により新政府が樹立されると徳川慶喜は二条城から大坂城へ居を移し、年が明けた1868年(慶応4年 / 明治元年)の「鳥羽伏見の戦い」によって戊辰戦争が開戦されると、3日後の慶応4年1月6日、航路を江戸へ向けて逃亡した慶喜は、2月12日に上野寛永寺で謹慎。その翌月、3月14日に西軍大総督府下参謀・西郷隆盛と徳川幕府陸軍総裁・勝海舟による歴史的な江戸戦闘回避の会談の結果、4月11日の江戸城無血開城へと時代が急転直下で動いて行きました。

     思うに、英国公使パリーパークスが徳川慶喜の事を「類い稀な傑出した才能ある人物」と評したように、幕府軍が圧倒的な戦力(人員数)と火器を有していたことから、徳川方は戦いの勝利に絶対的な自信を持っていたことは確かで、その油断が初戦の大敗因となった事は確実です。銃器も整えた圧倒的な軍勢の徳川軍の兵士が、気の緩みから何の指示もなかった事から、銃に弾を込めおくなどの準備を怠っており、最新鋭のアームストロング砲でその間隙を突かれた為に大混乱をきたして、一気に初戦に敗走したのが徳川幕府崩壊の根本原因だったのです。

     ある意味、世界的にも卓越した当時の日本の最優秀な頭脳が結集していた集団が徳川幕府でしたから、伝統に培われた戦闘衣装も気品と美に溢れていたわけで、それとは対照的に、にわか仕立ての薩長軍はドラマで見る整然とした風体とは異なり、風変わりな、皆それぞれの格好をしていました。「軍服(洋服)」はフランスやイギリスの物を真似て作られましたが、元々銃器を扱う前提でデザインされている為、極めて使い勝手は良いものの、値段が高価だった為にコストや数で追いつかず、洋服を着用している隊員は一部に留まり、袖や裾を洋服に近い形を真似てカットした奇妙な服など、通常の着物へほんの少し手を加えただけの貧相な軍装の薩長軍でした。

     また、よくドラマで見かける錦の御旗(mihata)を先頭に、江戸に向かってピーヒャラピーヒャラと進軍して来る西軍の馬上の大将が、洋装の陣羽織姿で、頭に白や赤の長髪のカツラを被っている姿が定番として描かれていますが、あれも虚構(Kyokoh / ウソ)の産物です。

     あのカツラは、リギュウ(唐牛 / Kara ushi)の毛で作られた飾りで、元来は戦国武将の本多平八郎忠勝が兜に飾り、威厳を発していたのを家臣がこぞって真似たもので非常に貴重なものでした。赤毛は赤熊(シャグマ)、黒毛は黒熊(コグマ)、白毛は白熊(ハグマ)と呼ばれて、もともとはチベットのヤクのしっぽの毛を染めたものでした。それらは仏教の払子(Hossu / 葬儀の際に僧侶が使用するハタキのような道具)や兜の飾りとして使われ、高価な希少品だった事から徳川家が宝物として江戸城に大量に保管していたものだったのです。芝居などでも武田信玄の兜飾りとして知られていたので、それを江戸城開城の際に、無作法にも貧相な西軍が土足で踏み込んで来た折に戦利品として奪取し、官軍所属の藩ごとの目印として隊長がかぶることに利用したのです。その区分は、赤熊→土佐藩、黒熊→薩摩藩、白熊→長州藩となります。ですから、元来、江戸城にあったものなので、京都から江戸まで進軍して来る西軍は身にまとう筈もなく、彼らがチャッカリとこれらのかぶり物を流用するのは江戸城開城後の事になります。

     世の常ですが、歴史というものは勝者の言い分がベースとなって記録されている必然がありますので、この日本の大革命ともいうべき徳川幕府の崩壊に際しての正確な幕閣の動きや、その主としての叡智溢れる徳川慶喜の真の動向と心理戦の詳細を知るには、更なる時の経過を待たなければなりません。

     そんな殺伐とした世界とは一線を画していた別世界のようなヨコハマの明治2年(1869年)9月10日のこと、高島屋に一夜の宿を求めて顔を出したのは、大蔵大輔(現代の大蔵次官)の大隈重信、そして、大蔵小輔の伊藤博文の二人でした。彼らはジャーディンマセソン商会(横濱英一番館)のオーナー、サー ウィリアム ケズウィックと共に、横浜のイギリス公使館を訪問した直後の来訪でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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