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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)8月20日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その32
〜高島嘉右衛門さんの事 その(9) 〜

今年、令和2年7月2日、午前2時32分ごろ、関東上空に極めて大きな火球、つまり流れ星が現れ、数分後に爆発音も聞こえたと全国的に報道されました。あまり前例のない火球の破裂音が地上まで届いた事を報じたわけですが、この大きな流れ星は西から東の空へ飛行し、SNSでも「遠雷のような音が聞こえた」との声が相次いで投稿されました。ひと昔前でしたら、上へ下への大騒ぎになった事は確実です。

後日判明したのは、その破片が千葉県習志野市のマンションで発見された事と、分析の結果、日本国内では53番目の隕石であるということを国立科学博物館が発表した事で、「習志野隕石」と命名されて登録申請されることになりました。

そんな同じ現象が、時代を隔てて勃発した事が高島嘉右衛門の資料にも記されています。

※大自然の美、、、。
時代を違えても同じ満月と富士が江戸・東京を見下ろしています。

南部藩の鉱山開発から江戸に戻った19歳の清三郎は、父・嘉兵衛の死期が近い事を悟ると同時に、降って湧いたような次姉の夫で養子の利兵衛による放蕩三昧の結果、莫大な借金まみれとなった遠州屋を背負って立つことを決意します。自ら「二代目遠州屋嘉兵衛」を襲名して遠州屋の再建に乗り出すわけですが、盛岡南部藩の境沢鉱山開発や、さまざまな難事業を手がけた父親譲りの気迫と度胸を引き継ぎ、遠州屋の身代を背負ってゆく決意をこの「二代目襲名」という形で父に示したのでした。

責任感溢れる二代目嘉兵衛の捨て身の努力は、債権者たちの心を打ち、返済の長期割賦を了承して貰うなどの結果を生み、借金も完済間近に迫った嘉永6年(1853年)のこと、二代目遠州屋嘉兵衛の名にも慣れた清三郎こと後の高島嘉右衛門は、用談で市ヶ谷の松平佐渡守の屋敷を訪ねた帰り道にあり、薄暮の半蔵門から桜田門の方向へ歩いていました。

この時代、お堀端にはおでん、うどん、蕎麦などの屋台が出ていて、江戸の庶民の夕涼みの場所として人気があったわけですが、そんな一軒の屋台の麦湯で乾いた喉でも潤そうと暖簾(noren)をくぐったその時、提灯持ちとして同行していた手代の長吉が「旦那、旦那!」と大声で叫び出したのです。

慌てて振り返った二代目嘉兵衛が見たものは、中空を飛んで行く大きな火の玉でした。半蔵門から桜田門一帯の空は灼熱の炎のように燃え上がり、次の瞬間、千代田城内にパッと白い閃光が走り、大地が大きく揺れると、あちらこちらの屋台からドンブリを持ったまま飛び出してくる者や、手に持った箸で赤い残照の大空を指し示しながら震える者など、大騒ぎとなりました。

この異変は、既に洞察力が磨かれていた二代目の脳裏を鋭いインパクトで突き抜け、「天下国家に一大事が起きる。この火の玉こそ何か大事件がおこる前兆に違いない」と嘉兵衛は独り言を呟(tsubuya)きます。

事実、この年(1853/嘉永6年)の2月2日には、後に「小田原地震」と命名される大規模な地震があり、江戸は震度4から5の大揺れとなったほか、小田原を中心に莫大な被害が発生しており、また、二代目が火球を見た同時刻には、浦賀沖に現れたアメリカ東インド艦隊に対して浦賀奉行与力・中島三郎助と通詞・堀達之助が交渉に当たっている真っ最中でした。

翌日の64日には、佐久間象山が米艦隊を視察するために浦賀へ赴き、吉田松陰らと会見したほか、7月には勝海舟が要請に応えて貿易論、人材論、兵制改革論の海防意見書を提出したことに起因して、824日、幕府の指示によって江川太郎左衛門の指揮のもとに11基の品川沖台場の築造が開始されます。

更に、11月に入ると、幕府は江戸と周辺の豪商、豪農に上納金を命じ、アメリカより帰国していた中浜万次郎(ジョン万次郎)を普請役格として幕閣に登用します。また、水戸藩に大船建造を命じ、相模・上総・安房の江戸湾岸警備を彦根・肥後藩等に命じると、浦賀に造船所の建設を開始し、12月に入って、石川島を造船所とする旨を決定した幕府は水戸藩に軍艦の建造を命じ、同時にロシア側との交渉を開始します。

まさに時代が大きく変革する予兆を知らしめる結果になったのが火球の来襲だったわけですが、幼い頃から書に親しみ、物事の洞察力を培っていた二代目嘉兵衛は、眠っていた遺伝子が目覚めたような聡明な眼差しで、日々、飛び込んで来る情報を頭に叩き込んで整理するなど、後年、八卦占いの大家としても名を轟かせるようになる片鱗が既に芽生えていました。

真夏の空に時代を超えて、、、、。

未来を見つめる海側の元町フェニックス「ステラマリス」。

そして、同じこの年の春、名門道場として江戸の武士町民の間で有名だった北辰一刀流・千葉定吉道場にひとりの青年が入門します。19歳になった坂本龍馬でした。その折の逸話を筆者の記録から転記すると、、『土佐で裕福な幼年期を過ごした龍馬が、江戸京橋の北辰一刀流千葉定吉道場に入門した時は、仙台平の袴に金糸を縫い込んだような、どこか大名の子弟がやってきたような恰好をしていた、、』と、ピカッとした若き日の龍馬が目に浮かんで参ります。その龍馬が2ヶ月後の6月3日、ペリー艦隊が黒船4隻を率いて浦賀沖に来航したのを期に、品川海岸の警備にあたっていたのですから、歴史の糸が、何かを紡ぎ出す瞬間と言うものが確かに存在する事がよくわかります。

まさに、世の中が、二代目遠州屋嘉兵衛の登場を待っていたかの様に、大きく動き出した瞬間でした。

この日、火の玉を見た事をキッカケに世情が騒がしくなって来るわけですが、史実にあるごとく、十一代将軍家慶の急逝、黒船来航、吉田松蔭投獄など、日本の鎖国体制が崩れだし、徳川幕府が幕末の動乱期へと一気に動き出した瞬間でもありました。

(続く、、、、)

Tommy T. Ishiyama

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