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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)4月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その68
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(45)              

     令和4年4月、今年も本格的な春を迎えています。

     季節のはんなりとした長閑さを逆なでするように、昨今のニュースはロシアによるウクライナ侵攻とコロナ感染一色の様子を呈していますが、ロシアによる暴挙はテロ同然の蛮行そのもの。欧州史のみならず、第3次世界大戦を誘発しかねないこの忌まわしい事件は、貪欲な国家によって地球が踏みにじられた真っ黒な汚点として近代世界史上に深い傷跡を残すことは必至です。

     そんな今日、桜前線が全てを浄化するように日本を北上して行く様は、私たちに希望の波動を伝播させ、幸せをその淡いさくら色で包み込んで皆に届けているようでもあり、新たな世界へ飛び出した皆の更なる飛翔を後押ししてくれているようにも思えて、 踊る花びらの真ん真ん中でジャンプしてから、大きく両手を広げて深呼吸をしたくなる衝動に強く駆られます。

※ 横浜指定文化財「旧伊藤博文金沢別邸」。多くの政治家、閣僚が足を運んだその中には、伊藤の婚籍にあたる高島嘉右衛門の姿があったーーー。

※ 伊藤ら長州の5人(Cho-Shu Five)をロンドンで支援したのがジャーディンマセソン社ロンドンの総師 ヒューマセソンだった。彼らによって計画的に、後から留学を実行した若き薩摩藩士と合流する事になる。異国の地で、長州と薩摩両藩の次代を担う若者達の交流が開始されると、そこには薩摩、長州と言った小さな隔たりはもう消滅していた。出来上がった人脈はやがて薩長連合、王政復古、戊辰戦争、明治維新と日本の近代史を動かして行くーーー。

     春のそよ風に誘われて久しぶりに訪れた金沢八景、野島に佇む瀟洒(sho sha)な「旧伊藤博文金沢別邸」にはひと影もなく、庭園から見渡す東京湾の清らかな浅瀬の海に海苔の養殖筏(ikada)が大きく広がり、その向こうに八景島の人気施設が眩(mabu)しく輝いている様子は、まさに過去と現在をつなぐ接点がそこに存在している様で、時間が完全に停止しているような錯覚に捉われます。   

     高島嘉右衛門の長女「たま子」と結婚する事になる伊藤博邦は、井上 馨(Inoue Kaoru)の兄の四男として生まれ 、3歳から伊藤の家で育ち、8歳の時に男子がいなかった伊藤博文の嫡養子となりました。後年、学習院に学び、政治家、華族、貴族院議員になりますが、この婚姻の結果、友人としてだけでなく婚籍となった伊藤と嘉右衛門でした。

     嘉右衛門の易断を信じながらも自ら死地と覚悟した満州へ旅立った伊藤は、大連に到着し、翌々日には旅順の戦跡を訪れます。そして、人生の終着地となるハルピンに到着したのは明治42年10月26日、69歳の時でした。朝鮮独立運動家の安重根(アン ジュン グン)によって放たれた3発の銃弾は、日本の未来と伊藤家に授かった十男三女の孫達の成長を見ることなく、伊藤博文というひとりの男の人生を引き裂いたのです。

     伊藤暗殺の一報に愕然とした嘉右衛門は、慣れ親しんだ伊藤の金沢別邸に篭り、易断の暗示に従って、もっと伊藤の外遊を引き留めておけば良かったとの後悔の念とともに涙に暮れたのです。

※ 若き日の長州藩士、伊藤博文(伊藤俊輔)ら5人がグラバー商会のトーマスグラバーや亀山社中を率いる坂本龍馬の助けを借りて、英一番館・ジャーディンマセソン商会が画策した密出国によって英国留学を果たしたのは1863年(文久3年)5月12日の事だったーーー。

     初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文により、茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築のこの金沢別邸が落成したのは明治31年(1898年)のことでした。伊藤自身が風光明媚なこの金沢の地をこよなく愛した事から建設に至ったこの別邸には、大正天皇や韓国皇太子なども訪れています。

     明治時代、富岡エリアなど、この金沢周辺は金沢八景という呼称に名が残されているように風光明媚な名勝地だった事から、東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4代、第6代内閣総理大臣を務めた松方正義や大蔵大臣・外務大臣等を務めた伊藤の盟友、井上馨(Kaoru)、そして、日本画の大家、川合玉堂などが別荘を設けています。その後、大磯や葉山などが別荘地として繁栄し、金沢はその役割を終えるわけですが、現在も残るこの旧伊藤博文金沢別邸は、当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構として、平成18年(2006年)年11月に「横浜指定有形文化財」に指定されました。検査によって建物の老朽化が著しい事が判明したことから、平成19年(2007年)に解体工事・調査を行い、現存しない部分を含めて創建当時の姿に完全復元されて現在に至っています。

     嘉右衛門が腰を痛めて思うように外出がままならなくなる明治39年(1906年)頃まで、夏の避暑地として伊藤が滞在する折には、必ず嘉右衛門も長逗留するのが常で、伊藤の依頼を受けて、易による世界の趨勢や国の将来を朝まで論じていました。

     筆者も久しぶりに訪れ、昔の実家に帰って来たような趣ある玄関を入り、奥座敷から、庭の枝振りの良い松林越しに眺める前述の八景島は観光地の様相を呈してはいるものの、静寂に包まれている邸内では、鎮(shizu)かに流れる時間の中で、茶釜蓋が湯加減よく松風の音のように震えている音や、パチッと勝負の碁石を置く音に混ざって、嘉右衛門が易を立てる時の、ササッ、、サッ、サッと手際よく捌(saba)く筮竹(Zei chiku / 竹製の長い串のような占いの道具)の音が何処からともなく聴こえて来るように感じて、声を掛ければ隣室の座敷奥から返事が返って来そうな臨場感の中、静かにひとり、タイムスリップを楽しんで参りました。

※ 伊藤博文と高島嘉右衛門が最後に会った地。当代の上流階級の社交場の様相を呈した高島嘉右衛門の「高島屋」があった場所に建つフレンチレストラン「馬車道十番館」。

※ 馬車道の勝烈庵本店の脇道、「六道の辻通り」越しに馬車道十番館が臨める。同経営グループのこのレストラン前に設置されているレトロな電話ボックスから、明治時代の皆へ電話が通じそうな気配を感ずるのは何故だろうかーーー。

     伊藤が、死地、満州ハルピンに向かったのはロシアの蔵相ココフツェフと会見し、満州問題について討議するためでした。慌しい日程を割いて、博文が最後の易断を得るために横浜の嘉右衛門邸を訪れたのは明治42年10月12日のこと。折しも池上本門寺のお会式の日のことで、これが二人の永遠の別れとなったのです。

(高島嘉右衛門特集、最終回へ続く。。。)

Tommy T. Ishiyama 

   

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