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2020年(令和2年)7月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!
【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その29
〜高島嘉右衛門さんの事 その(6) 〜
南部藩を飢饉の大災害から救ったこの近江屋・薬師寺嘉兵衛を父として生まれた清三郎(高島嘉右衛門)が、後年、占術の世界に縁を持ったのは皮肉ともいえるきっかけからでした。
そもそも清三郎は極端な虚弱体質だったことから、4歳の頃まで一人で歩くことも出来ない子供だったために、その成長を心配した嘉兵衛夫婦は、清三郎が1歳と半年を迎えた天保5年(1835年)5月、当時、日本屈指の観相家として有名だった水野南北を招いて清三郎の将来を占ってもらったのです。
水野南北(Mizuno Nanboku 1757~1834)は江戸時代において大阪・京都で大活躍した日本一の人相見で、最初はなかなか首を縦に振らなかった南北でしたが、何しろ、依頼主が名声を得ていた遠州屋嘉兵衛だったことと、是非にもとの丁重な依頼だったことに加えて、この立志伝中の人物の相を実際に会って見たくなったというのが真相かもしれません。
遠州屋を尋ねたことによって、観相学の達人と言われた水野南北の、かの有名な台詞が出るわけですが、幼な子だった高島嘉右衛門の手相人相を調べた水野南北老師は、やがて畏怖するように、じりじりと後ずさりすると、誰に言うでもなく低く頭を垂れて言葉を発したのです。
「これこそ九天九地の相じゃ…」と。
一人の人間に「九天九地の相」があるということは、その本人が果てしのない高位を極めたかと思えば、次の瞬間にはどん底まで落ち込んでしまうという、一般人には想像もつかない、絶頂とどん底の両極端の人生を歩む事を暗示していると言うことに他なりません。
水野南北師が嘉兵衛に解りやすく更に説明を続けます。
「上っては天界の神となり、一つ間違えば地獄の鬼ともなる。そんな激しい人生を歩むでしょう。しかし心配ご無用。一生のうちに何度も襲いかかってくる程の命もこれまでかと思うような大災難も、不思議な神仏の加護によって窮地を乗り切れるばかりか、それが良い経験となり、被った災いの全てが将来に福転化され、この子は他に類を見ない天寿をまっとうするでしょう」
父、嘉兵衛の心配事だった清三郎の健康に関して観てもらった「相」が、なんと「人並み優れた長命の相」であり、「八十歳まではこの南北が太鼓判を押しまする」との談を得て、安堵の胸を撫で下ろした嘉兵衛は自分の取り越し苦労を親バカ者と自笑しながら、更に、核心をついた質問に移ります。
「更にお伺い致しますが、私の後を継いで商人の道を歩かせるというのは?」
お世辞は絶体に言わない辛口の観相家としても名が通っていた水野南北が、考え込んだ末に発した答えは、、、
「商人におなりになっても、大きな功績を残すことは間違いございませんが....しかし....このお子はそれを望まれますまい」「それ以上のことは現在は観えませぬが、しかし、確実なことは、このお子は、自らの富の為に働くことよりも、幾千万の多くの方々に幸福をもたらすような天下に稀なる貴相を持っておられる事は確かです」
この時の南北は既に七十八歳。清三郎の観相が5月だったという正式な記録もあり、その年の11月にこの世を去った水野南北にとっては未来の日本を清三郎に委ねた遺言のようでもありました。この子が後の世に残した大活躍と努力の足跡を自分の目で見届けることができなかった事は心残りですが、この幼少の高島嘉右衛門の相を観るのが南北の晩年を飾る大仕事になった事は、一期一会の赤子と老人の不思議な縁がそこに存在していたからですが、それに見守られているように人生を送って行く嘉右衛門には、常に水野南北が付き随っていたとすら思えます。
南北はその後、返礼として「南北相法」「相法修身録」「相法秘伝」などの自著を、清三郎の成長の折の為にと届けていますが、現在でも「南北相法」は手に入るので、本格的に人相手相に関心のある皆さんは、その辺の一般的な入門書ではなく、クオリティ溢れるこの本を手にしていると伺っています。
当代随一の観相家、水野南北老師からお墨付きのような「九天九地の相」の観相を得た清三郎は、その後、寺子屋に通いながら当時の教育のスタンダードだった四書五経に接することになります。この四書五経には易経も含まれているので、気の早い皆様は高島嘉右衛門は子供の頃から易経の勉強をしていたのだろうと早合点なさると思いますが、有名な「高島易断」に至る素養は別の事実に由来していますので、それは稿を進めながら追い追いという事でどうぞ宜しくお願い致します。
四書五経は、当時、それしかなかったに等しい学問だったことから、知識層の皆が常識的に勉強していた学問でした。しかし漢文の四書五経はあまりに難解な為に、とうてい一般人やその辺の占い師が実用占いに利用出来るレベルのものではありませんでした。
現代文の分かりやすい易経本が溢れている現代でさえ、四書五経を読み解くのは難解ですから、明治以前は易経を読みこなして占断に利用できる人は、ほんの一握りのインテリ層でしかないものの、後年の嘉右衛門は抜群の読解力と暗記力で易経を読み込んでゆく事になるわけですが、まだまだその天分は嘉右衛門の中では眠ったままでした。
九天九地の相を持つ清三郎は、ごく若い頃から父親の嘉兵衛の片腕となって、大工事を手がけたり、縁ある盛岡藩の境沢鉱山開発など、さまざまな難事業を手がけ、父親譲りの気風の良さで遠州屋の身代を築いて行くことになります。
※COVID-19 必至に戦う医療従事者への感謝!
こころ安らぐハートを点灯しているホテルニューグランド。
横濱の旧居留地から未来を見つめています。
※横浜に同じく、神戸の旧居留地を見下ろして、
ハートが笑顔に輝く神戸ポートピアホテルの灯り。
今日の末文として、ここに後の高島嘉右衛門の易断の素となった「四書五経」略解説を記録して、次回へと話を進めることに致しましょう。
〜「四書五経」とは儒教の中で最も重要とされる9つの書物の総称で、四書は『大学』『論語(ろんご)』『中庸(ちゅうよう)』『孟子(もうし)』の事。五経は『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋(しゅんじゅう)』を意味しています。この「五経」という呼び方は、漢の時代から五経博士という役職もあったほどの古いものですが、「四書」というまとめ方は三国志より千年ほど後年の南宋の時代に成立しています。これは、朱子学の創始者である朱熹(しゅき)が推奨する4つの本をまとめて四子とか四子書とか呼んだのが始まりとなっています〜
実に「四書五経」の中には心に沁み渡る名言が多く、現代でも気に入った言葉を身に付けておけば、勇気がわいて来たり、人生のヒントを得られるなど有益な事から、筆者の私見として、昨今の言葉と知性に欠ける政治家達に対して、世のため人のためにどんな政治をするべきかを猛省し、精進しようと言う意志のひとかけらもある者へ、是非、贈呈したい書の筆頭ですが、果たして読みこなせるかどうか、。
つまり、四書五経は儒教の経典ですから儒教的規範を学ぶと同時に、中国では漢の時代から統治の道具として使うことが多く、そういう治世のもとで公職につく者には必須でした。三国志の時代の名だたる文人たちは皆、当たり前に五経を読み、人と会話をする際の基礎知識を得ていました。また、時代が下ると、韓流歴史ドラマではお馴染みの官吏登用試験である「科挙(かきょ)に合格するための必須書であったために、官僚は四書五経を丸暗記して必死に学んだのです。(続く、、)
Tommy T. Ishiyama