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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)3月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その66
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(43)          

     思い返せば、明治5年(1872年)の夏のこと、神奈川県令・陸奥宗光の部屋から弁舌爽やかな江戸っ子訛りの声が廊下まで漏れ聞こえており、その声の主は高島嘉右衛門でした。

     県令とは明治4年(1871年)の廃藩置県によって県に置かれた長官の呼び名ですが、明治19年(1886年)の地方官官制により県知事と呼ばれるようになる役職のことで、嘉右衛門が訪れたのは、第4代神奈川県令に就任した陸奥宗光が後にカミソリ大臣と呼ばれるほどの才能を発揮し、第2次伊藤博文内閣の外務大臣に抜擢される直前の頃の事でした。

     立場が違う嘉右衛門が、陸奥宗光を前にして一方的な論説が可能だったのは、伊藤博文を介して陸奥との深い親交が以前からあったことに加えて、何より陸奥自身がこれまでの嘉右衛門の実績や明治政府とのやり取りを充分に把握していたからに他なりません。

※ 高島嘉右衛門(1832年・天保3年 ー 1914年・大正3年)。江戸三十間堀に生まれた嘉右衛門の幼名は薬師寺清三郎。後に嘉兵衛、高島嘉右衛門と改名。勝海舟の薦めで号を「呑象(Don Sho)」と称し、鉄道敷設の為の横浜湾埋め立て事業をはじめ横浜の発展に多大な貢献を果たした。吉田勘兵衛、苅部清兵衛と共に「横浜三名士」と呼ばれるほか、高島町という地名にその業績の証があるーーー。

※陸奥宗光(Mutsu Munemitsu 1844年・天保15年 ー 1897年・明治30年、第2次伊藤内閣外務大臣に就任)。若き日の1863年・文久3年、泊園書院(現在の関西大学)に学び、後に勝海舟の神戸海軍操練所に入所。1867年・慶応3年、坂本龍馬の海援隊(亀山社中を前身とするビジネス組織)に参加し、龍馬の右腕として常に行動を共にするなど才覚を開花させたーーー。

     嘉右衛門の訪問と弁舌に困ったように眉を顰(hiso)めている陸奥県令に対して一歩も退く事なく論説を推し進めている嘉右衛門が手にしていたのは『高島町遊郭開設許可願』でした。陸奥にしてみれば嘉右衛門は高島学校創立の実績ある文化人であり、鉄道敷設の埋め立て工事を期限内に完工させた実業家の鏡のような人物なわけで、それが何故、道理を1歩も2歩も踏み外したような遊郭開設の申請をするのか、頭が混乱するのも無理はありませんでした。

     その一方で、相手が混乱すればする程、自分のペースに巻き込んで行くのが嘉右衛門の卓越した交渉術で、「易というものは陰陽の原理であり、男女の和合あってこそ世の中は成り立つものである」とか、「一見、不条理に思われる遊郭の存在も必要悪であり、そこに一定の統制が必要なのはどこの国も同じである 」などと、論調鋭く嘉右衛門は食い下がります。

     やがて、陸奥が無言のまま嘉右衛門の手から願書を取り上げた事に勝ちを実感した嘉右衛門は礼を述べるように深く頭を下げると、悠然と部屋を出て行きました。立場を替えて述べるなら、そこは切れ者の陸奥宗光のこと、嘉右衛門が遊郭開設を願い出た真の意図を自分なりに把握していたのです。

     嘉右衛門が鉄道敷設の為に埋め立て、自らの土地として認可された高島町と嘉右衛門町の一帯は海と線路に挟まれていて、ぬかるみも多量の塩分を含むなど田畑には不向きな上に住む人も無く閑散としたエリアになっていました。そんな状況を打破し、嘉右衛門が投下した資本を回収する為の苦肉の策が遊郭の設置案だったのです。

     令和の現在でこそ、やっとビル群が林立し、交通量も豊かなエリアに変貌を遂げていますが、それも最近の事で、筆者の記憶にある高島町は滅多に貨物列車も通らない開きっぱなしの単線の踏切がポツンとあって、一部の港湾労働者向けに牛乳やパンなどを置いている小さな駄菓子屋のような店が一軒、その脇の陽だまりで猫が日向ぼっこをしているようなところでしたから、当時は、それこそ何もない寂しい一帯だったことは容易に想像できます。

     論説している嘉右衛門の声がまだ響き渡っているような錯覚を覚える部屋で、嘉右衛門が去った後に陸奥宗光が決断までに要した時間は、まず、沈黙思考し、次に、腕組みをしながら部屋の中を一周して、壁に掛けられている「横浜大地図」を凝視するのに要した時間だけでした。

     遊郭のある港崎(Miyozaki / 現在の横浜公園、横浜スタジアムの一帯)の高田区長を呼び付けた陸奥県令が即座に発した命令は「港崎遊郭(Miyozaki Yuukaku)をすべて太田久保山地区に移転せよ」というものでした。区長が急な移転命令に顔面が蒼白になったのは当然で、太田久保山地区といえば崖ばかりの墓地と火葬場以外には何もない土地であった事と、移転の準備には最低でも2年から3年を要するからでした。

※歌川 貞秀(Utagawa Sadahide)「神奈川横浜新湊港崎町遊郭花盛之図」 に観る港崎遊郭(Miyozaki Yuukaku)の興隆。横浜港崎遊郭は、最初は現在の横浜公園の付近にあったが慶応2年の大火災(豚屋火事)で消失した。歌川貞秀は本所亀戸村亀戸天神前に居住した後、安政末から文久にかけて横浜に移住した浮世絵師で、元治から慶応年間は深川御蔵前に住んだーーー。

     県令に異議を唱えたものの、聴く耳を持たない陸奥から「嫌なら区長を辞任しろ」と恫喝されて、一気に反論も萎えてしまう区長でした。

     陸奥宗光県令は急ぎ嘉右衛門宅へ駆けつけます。訪問の名目は囲碁の手合わせでしたが、何かを察した嘉右衛門は県令の急な訪問に驚いたものの、無言で一局に臨みます。碁は手談とも言われ、黙していても双方の意思が通じる高度な遊びと察しての事でしたが、その日は実に会話の多い一局でした。

     陸奥の本意を読み取ろうと集中している嘉右衛門に、碁石の位置を引き合いに出して陸奥が発した言葉はストレートなひと言でした。それは、「その難石は捨てるか差し替えるが宜しかろう。例えば今日、港崎遊郭が太田久保山へ移転を命ぜられたように、、」と言うものでした。久保山での遊郭の経営などは想像しただけでも大変な事は一般人でも解るレベルの話です。陸奥県令は目的を達したように、その言葉を口にした後、多忙だからと言いながら席を立つや、全てを理解した嘉右衛門はこの時とばかりに行動を開始します。

     まず、書き上げた東京への何通かの手紙を手代に託し、次に自ら港崎の女郎屋「神風楼」と「岩亀楼」の主人を呼び寄せたのです。移転命令に頭を抱えていた港崎遊郭の大店二人は、横浜の有力者である嘉右衛門からの使いを千載一遇の好機と捉えて嘉右衛門宅を訪れるや、移転命令の取り消しを必死に嘉右衛門に懇願するのでした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

 

 

 

 

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