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2023年(令和5年)2月20日号 元町コラム
横浜開港200年 / Y200(2059年)を夢みて!

【特集】心安らかに人生を見つめ直す旅への誘(izana)い〜(3)

     「片雲(hen-un)の風に誘われて」奥州を旅した松尾芭蕉は元禄2年3月27日(新暦の1689年5月16日)、江戸、深川にあった草庵「採荼庵」(Saito-An)を発つと、舟を千住大橋付近で降りて日光街道を行き、草加、日光を経て下野国(Shimotsuke no Kuni 現在の栃木県)の城下町黒羽で大歓迎を受けます。

     この旅では最長となる同場所での14日間の滞在は、知己の皆との交歓の場として、また、覚悟の旅に出るが故の最後の別れを惜しんだ事が容易に想像出来ますが、この地から奥州街道を北に向かい、白河の関を越えて奥州に入ったと記録にあります。

     五街道としての奥州街道は正式には「奥州道中」と呼ばれ、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河から南に上って江戸日本橋(または江戸城大手門)までの道中を意味し、27の宿場が置かれていましたが、一般的には脇街道もあわせて江戸から松前道のうち本州北端の三厩宿(Miumaya-Jyuku 青森県)までの約100宿を意味し、その長さは実に900kmにも及んでいます。

     白河が下野国宇都宮に次ぐ人口を有するなど、賑わい、繁盛したのは、江戸と陸奥国(Mutsuno-Kuni / 現在の福島・宮城・岩手・青森)更には蝦夷地(Ezochi / 松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島、およびサハリン島(樺太島)や千島列島を含む周辺の島々等の総称)との物流が盛んになり、白河がその中継点として重要な位置を占めていたからでした。

     「おくのほそ道」は松尾芭蕉が崇拝した高僧、西行法師(元永元年・1118年〜文治 6年 2月16日・1190年 3月31日 平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・僧侶 ・歌人)の500回忌を期して敢行され、その全行程は約600里(2400km)、所要日数約150日間の東北・北陸を巡る壮大な旅の記録です。

※ 芭蕉が「奥の細道」の旅に出かけた日が旧暦3月27日、新暦の5月16日に当たる事から、この日は記念日として「旅の日」と制定されている。 せわしない日常の中で旅のあり方を考え直そうという意味で設定されたーーー。

     片雲の風、、つまり、ちぎれ雲が風に誘われて、ふわりふわりと浮動するのを見て、わき上がる旅心を押さえきれず、松島の月が気にかかって、、、芭蕉は住んでいた家も処分して東北を目指したわけですが、この奥の細道の旅行で、芭蕉は1日に13里(約51km)を歩いていることから、この超人的な歩行距離と彼が伊賀の出身であったことから「芭蕉忍者説」まで飛び交い、国文学者であった池田弥三郎氏も「伊賀忍者の歩行術を心得ていたのであろう」と生前に述べています。

※ 美しい富士山。 悠久の時を刻みながら、旅のつれづれに、そして旅から帰ってきた時も、 いつも変わらない姿をそこに見せてくれるーーー。

     奥州へと旅立った芭蕉はこのとき46歳。 住み慣れた上野・谷中に咲く花を来年もまた見られるだろうかと、ふと不安になるのも道理でした。

     「月日は百代(Hakutai / はくたい)の過客にして、行(Yuki)かう年も又旅人也」との書き出しはあまりにも有名ですが、「先人の詩人たちも旅に殉じた者が少なくなかった」という事実を憂う芭蕉本人も旅の途中で亡くなる事になるわけで、何やら暗示的なものを感じずにはいられません。

  旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

     この余りにも有名な一句は、現在では「夢は枯野をかけ廻る」に悲愴な芭蕉の気持ちを読み取ることが多いという解釈が一般的ですが、筆者自身としては芭蕉が「病中吟」とわざわざ一筆を書き添えていることから、回復を待って、まだまだ旅を続けたいという芭蕉の強い意志をそこに感ずる次第です。

     現代では余程の冒険旅行か不慮の事故に見舞われない限り、安全安心の旅を楽しめる事に感謝の念を禁じ得ない今日この頃です。

     さて、旅とはまた趣が異なるものの、人生でいろいろな人と出会い、刺激を頂いているのと同じような存在が「映画」と言ったら言い過ぎでしょうか? 友人もそうならこれまでの人生で出会った「本」も同じかもしれません。

     もし、50年、100年の単位で、それらの作品が生まれた時代と自分の人生とのタイミングが少しでもズレていたら、出会いはまるっきり別物になったか、全く出会う事のないスレ違いの人生で終わるわけですから不思議な気持ちと寂しいものを感じます。

     まあ、その時はその時で別の出会いがあるわけですが、これまでの人生で大きな感動をくれた作品の数々と全く出会う事がない人生をこれから送るとなると、想像を絶する寂しい人生に思える程に蓄積されているものの大きさに感動すら覚えて、これまでの数々の作品を思い浮かべるまでもなくスクリーンを彩ってきた古今東西の名作とスターの皆さんが私たちを誘ってくれたワンシーンや街角の風情が次々と脳裏に蘇って参ります。

     自由の女神を船の上からながめた「ファニーガール」のバーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand)を思い出しながら、ロバート・A・デ・ニーロ(Robert Anthony De Niro)のようにリトルイタリーの裏ぶれた通りを歩き、キングコングが登り詰めたエムパイアー ステイトビルディングを見上げて、五番街のティファニーでウィンドウショッピングを楽しんだら、アップタウンに入って、ナタリー・ウッド(Natalie Wood)とリチャード・ベイマー(Richard Beymer)が恋人達を演じた「ウエストサイド物語」のフラットがある西109番通りに向かい、終点は、、、数々のスターを輩出したハーレムの「コットンクラブ」でニューヨーク一周の締めくくりです。

     芭蕉翁が現代を旅したら何処(Izuko)を目指すのでしょうか。 「船の上に生涯を浮かべ」、「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」。 奥の細道の文頭を読み返すと、若い時代には気がつかなかった味わい深い語句が網羅されている事に気が付きます。 「古人も多く旅に死せるあり」、、芭蕉は旅を続けたかったものの、充分に納得して旅の途中で更に遠い旅へと旅立ったのではないでしょうか。

Tommy T. Ishiyama

 

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