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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)5月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その49
                  〜高島嘉右衛門さんのこと その(26)

     高島嘉右衛門が通訳として雇った横浜の天才少年こと横山孫一郎は、その物怖じしない性格や身分や家柄に左右されない生き様から、外国人とも対等な社交術を身に付けた時代を先取りしたような逸材でした。

     歴史の一部を知る現代の私たちには、そんな孫一郎少年は幕末にタイムスリップして来た現代人のように見えるし、彼を横浜の坂本龍馬とでも例えた方が解りやすいかも知れませんが、グローバリズム溢れる柔軟な言動や素養は、当時の横浜では浮いた存在であった事は確かながら、居留地の外国商館の皆には好感を持って迎え入れられていたのです。そのひとり、孫一郎が以前から懇意にしていた米国人の建築家ビジンは、自分の妻の姉がアメリカ公使ウェンチェストン夫人という縁から横浜の居留地では一目置かれていた存在でした。

     1862年(文久2年)、横浜の居酒屋「伊勢屋」で初めて供された牛鍋は、1869年(明治2年)に6軒ほどの牛鍋屋の開業を見るに至る先駆者になるわけですが、珍しいもの好きで好奇心旺盛なビジンを話題の伊勢屋に誘った孫一郎は、呑むほどに酔うほどに、ビジンが異文化が生んだグルメを充分に堪能している姿に大満足でした。

     翌日、孫一郎を介してビジンからイギリス公使ハリー・パークス宛の紹介状を得た嘉右衛門は、急ぎ、横浜居留地20番の横浜ホテルを仮住まいにしていたパークスの元へ孫一郎を派遣すると、面会の日取りを取り付ける事に成功します。大英帝国を後ろ盾に権勢を振るっていたパークスは、当時の在日本外交官の中でも群を抜いた存在で、幕府の老中や奉行などを相手にしないばかりか、公式の場合を除いて日本人と接触した事は一度もないという程の気位の高さでしたが、嘉右衛門が手にしたアメリカ公使からの紹介状が予想以上の効力を発揮し、ホテルの一室でイギリス貴族を気取って葉巻を燻(kuyu)らすパークスは「10分間だけ」という条件付きで面談に応じたのです。

     1860年(万延元年)開業の日本最初のホテルとなる「横浜ホテル」があった場所は、現在、横浜スタジアム前の大桟橋通りにあるレストラン「かをり本店」がある地がその跡地ですが、ホテルはコの字型の和風外観の平屋建てで、内部は和洋折衷の混合様式になっており、食堂、ビリヤード室、バーが一方の棟に、反対側の棟に居間や寝室、そして離れに厩舎が装備されていました。晩年のシーボルトも滞在した記録がある横浜居留地で唯一のビリヤード場が人気の一流ホテルでしたが、豚屋火事で焼失する1864年まで営業していました。

※現在の横浜市中区山下町70番地、日本最初のホテル・横浜ホテルの跡地に建つレストラン「かをり」(写真左のビル)。 その右は「旧シイベルヘグナー Bldg.」最上部の丸く加工された外壁部分に同社の社章である「sh」のロゴが輝いていた。社史にもあった敷地内の地下に眠る佐久間象山製造の大砲4門の埋蔵伝説は、新ビル建設の際に2門が出土した。その1門が同ビル後方に保存展示されているが、検分した紋章からするとプロシア製であった。伝聞の埋蔵4門が事実なら残り2門はそのまま眠り続けている事になるが、いつの日か発掘され、それが佐久間象山の手によるものと判明するのかどうか、ロマンが継続されて行くーーー。

※筆者の若き日の必需品、スイス商社シイベルヘグナー社の社章「sh」と、同社時代の担当ブランドのひとつであったOMEGAの襟章とロイヤルコペンハーゲン社製の同章のカフスボタンーーー。

     小欄名物の余談になりますが、この「かをり」の横隣り、現在の「ファンケルビル」は、前述の「旧 シイベルヘグナー ビル」(Siber Hegner / sh Bldg.) ですが、新ビルになる以前の関東大震災でも倒壊しなかったアラモの砦のような旧sh社屋は、筆者も同社に在籍の折には丸の内の本社から幾度となく通った事がある思い出深いビルでした。シイベル社がビルを建て直す際に、建築デザイン等、一切の業務を担当したのがジャーディンマセソングループのハリファクス社で、堅牢な造りの旧ビル解体の苦労話や、多額の費用を要したこぼし話を担当責任者からよく聞かされたものでした。時期を前後して、シイベル(sh)社とジャーディン(JM)社の両社に在籍していた筆者には、非常に近しい思いが溢れるエリアと言うことが出来ます。

     さて、イギリス公使パークスが、横浜ホテル住まいを強いられていた理由ですが、それは自らの身の安全を死守するためでした。それは、高杉晋作(Takasugi Shinsaku)を隊長に、若き日の久坂玄瑞(Kusaka Genzui)や伊藤俊輔(Shunsuke 後に博文/初代総理大臣)、志道聞多(Shidoh Monta 後の井上馨 Kaoru/初代外務大臣)等の江戸滞在中の長州藩尊王攘夷派の志士たちが、幕府に攘夷を督促する勅使三条実美や姉小路公知等を迎えて意気が高揚した結果、尊王攘夷結社である御楯組(Mitate-gumi)を結成し、品川御殿山にあった建て替え完了間際のイギリス公使館を焼き討ち(1863年1月31日 / 文久2年12月12日)した為の、自身の保全のために横浜ホテルに移り住んだと言う経緯があったのです。

※ イギリス公使館襲撃事件「東禅寺事件」があった東禅寺近影。
双方共に大きな犠牲者が出た第一次東禅寺事件後、イギリスは海軍本隊を日本へ派遣すべく準備を完了していた。清国とのアヘン戦争前夜に似た対日本のイギリスの状況は、幕府としても清国と同じ状況に日本が追い込まれる危機的状況にある事を察知しており、イギリスは江戸幕府に対し厳重に抗議すると共に、イギリス海軍の水兵を公使館に駐屯させる承認と日本側警備兵の増強、また、死亡したイギリス軍警備兵などの賠償金1万ドルの支払いという高条件で事件は一応の解決を見たがーーー。

※しかし、交渉にもとづいて品川御殿山に建設中だったイギリス公使館が、完成間近の翌年12月、長州の高杉晋作らの焼き討ちによって全焼した。世に言う公使館焼き討ち、第2次東禅寺事件だった。被害にあった建物は、英国公使ラザフォード・オールコックが2代目公使ハリー・パークス等と共に幕府に公使館建物の建設を要求して実施されていたもので、建設費の10分の1の年間賃貸料で借りることで合意しており、オールコックの提供図面をもとに幕府作事方が1863年(文久2年)春に建設が開始されていたもので、12月には建物はほぼ完成し、翌年早々にイギリス公使館として用いられることになっていたーーー。

     嘉右衛門が初対面のパークスに会い、真っ先に話題にしたのはこの事件のことでした。「公使館新築の件で申し上げたいことがある」と切り出した嘉右衛門のひと言はまさにパークスの懸案事項に真正面から切り込んだ見事な一太刀だったのです。

     嘉右衛門の研ぎ澄まされた交渉は実に論理的でした。

     まず、アメリカのペリー提督の来日によって日本が開国に踏み切ることができた事。それ以前の我が国は、支那朝鮮以外ではわずかオランダ国とのみ交流していた為にアメリカの存在やイギリスのような大帝国のあることも知らず、開国で初めてそれらの国々の存在を知った事。そして、これらの事実は一部の者のみが知るだけで、他の国民は、まだ鎖国時代の因襲を継続している事。更に畳み込むように、「パークス閣下をはじめ諸外国が平和裡に日本と友好関係を築き、進化した西洋文明を日本に進言しようとしても、それを理解できる者が少ない」と述べ、加えて、「その理解者である多くの者が集まっているのがこの横浜である」ことを力説したのです。

     これらの一字一句を横山孫一郎が必死で通訳している姿に感銘したパークスが軽く頷いたのを見逃さなかった嘉右衛門は更に言葉を続けます。

     江戸と横浜は陸路でわずか一日、しかし、外国に対する感覚には10年の差があること。御殿山の公使館焼き討ちの暴挙はパークス閣下はじめ皆の行動を誤解した為に勃発した不慮の出来事であった事。これらの暴漢達に正しい道理を教え込み、世論を修正するにはかなりの時間を要する事。加えて、外交というものは休止や中断を許容しない事を自分は理解しており、現在のようにホテルの一室で窮屈な生活を余儀なくされている事に同情の念を禁じ得ない事を述べたのでした。

     パークスは、自分が今抱えている日本人の思想的な問題について、嘉右衛門の話を聞くうちに時間が解決してくれる事を実感すると、普段は見せない温和な表情になり、それを見た嘉右衛門は一気に本題に取り掛かります。それはパークスの抱えていた難問の解決に直結した提案でした。世論が開国に同調すれば治安も良くなることは当然の事。なので、それまではパークスに横浜に留まって欲しい事。そして、この横浜の地にイギリス公使館を建てる事こそがベストであり、外交に関する仕事は江戸から役人達を出向させて処理すれば安全で便利この上ない旨を説いたのでした。

     パークスの心に秘めていた咄嗟のひと言を聞いた孫一郎は、自信に満ちた顔を輝かせながら嘉右衛門に通訳します。それは、公使館の新築費用の相談でした。それこそ嘉右衛門が待っていたひと言で、思案を巡らし、あらゆる可能性を加味した答えを準備していた嘉右衛門は我が意を得たりと結論へ話を進めるのでした。

     高島嘉右衛門の提案と、イギリス公使ハリーパークスのこの時の話の結果が、イギリスを始め各国公使館、領事館の横浜進出に直結し、強いては経済、外交の中心に横浜が躍り出る事になる導火線に火がつけられた瞬間だったのです。

(続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

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