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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)9月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その57
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(34)    

  まさに怪我の功名と言うか幸運と呼ぶべきか、嘉右衛門が申請した鉄道の敷設が明治政府に認可されなかったことは、命を失うような資金繰りの苦難や困難極まる事業契約の遂行などの重圧から嘉右衛門自身が解放される結果になったわけですから、伊藤(博文)や大隈(重信)に感謝しなければなりません。

     思えば、一介の商人個人の担保で借り入れ出来る金額は知れたものですし、鉄道事業の規模から考えれば天を衝くような資金を要するわけですから、諦めもあって、そこにいち早く気がついた嘉右衛門の冷静さは易占いの素養に裏付けされたものだった事は明白です。

     一方、伊藤博文から資金調達を打診された英国人のリードは、何百万ドルという大金が手元にある筈もなく、ロンドンに舞い戻ると日本鉄道開設の為の公債の募集活動を開始します。その手数料を得る事が本来の目的だったわけですが、この手数料が日本政府側で大問題になりました。大隈、伊藤は公債という言葉を知らなかった為、リードに全て任せっきりだったわけで、個人の利害関係が多少はあるにしても大金過ぎたことから、結局、明治政府はリードに違約金を払って契約解除すると、イギリスのオリエンタル銀行と新たに契約を結び、100万ポンドの公債を募集して鉄道敷設資金を得たのでした。

     そんな紆余曲折の末に、嘉右衛門に鉄道敷地の埋め立て工事の許可が出たわけですが、その工期は「晴天140日での完成」という厳しいもので、更に、工期が遅れた場合の厳しい罰則が科せられていました。資金繰りのヒントを彼らに与えた形の、言わば、功績のある嘉右衛門自身が思うに、少々厳しすぎる条件ではありましたが、線路短縮のために野毛の浦や袖ヶ浦と呼ばれていた横浜港の埋め立て事業(現在の神奈川区青木町〜西区野毛町一帯)を請け負える物好きは、嘉右衛門以外に見つかる筈が無いことは彼自身が一番理解していたことから、ふたつ返事でこの工事を請け負う事を決断します。

※ 神奈川付近の鉄路建設風景。左に曲がった先に見える建物群が第1号横浜駅(現桜木町)。高島嘉右衛門が請け負ったのが現在の横浜駅付近から野毛にあった入江、野毛の浦と袖ヶ浦の埋め立て工事で、正面の広い海の一帯が現在の横浜駅西口から戸部に至る一帯。写真中央の青木橋(東海道)の下を行く線路が単線で敷設されているーーー。(原本は横浜開港資料館蔵・桜木町駅で展示されたある日のJR企画展より)

     この高島嘉右衛門による埋め立て工事請け負いのプロセスを、政治家と民間企業の癒着という輩(Yakara)がいつの時代も多々登場するわけですが、嘉右衛門が工事決行の判断に至った経緯は、若き日に、父の薬師寺嘉兵衛と鉱山事業で東北の山々を難行苦行で開発していた鉱山技師としての豊かな経験があったことと「為せば成る」という信念があったからで、知己(chi ki)を得ていた大隈重信や伊藤博文などとの、いわゆる「政治家と商人の癒着」と揶揄(ya yu)するのは誤解以外の何物でもないことをここに明記しておきます。

     その証拠には、埋め立て事業を完遂した者には鉄道線路を除きその土地を永代拝領させるという条件が新政府から出されていたものの、嘉右衛門はその権利を政府に返上しており、新政府は嘉右衛門の偉業を称える意味から埋め立てたメインエリアの名称を「高島町」と命名する事で礼に応えたという経緯があり、これが現代に「高島」の名が残る事になった理由です。

     鉄道事業は、ジャーディンマセソン商会やグラバーの手引きで密出国し、伊藤等と共にロンドン留学を果たした長州ファイブのひとりで、その後、永く英国に留まり、鉄道のエキスパートに成長して帰国していた井上勝に命じられました。嘉右衛門が担当したのは、現在も重要路線として稼働中の子安付近から直線的に横浜へ向かう際の難所であった、当時の神奈川青木町から横浜石崎までの区間の埋め立て工事でした。

     嘉右衛門は、数千人の人夫を集めると、連日、横浜が一望出来る高島台(大綱山山頂)に立ち、望遠鏡を駆使して現場を眺めては伝令を日に何度も送るなど、工事完成まで陣頭指揮を取り続けたわけですが、現在でも見晴らしの良い各所から青木橋下を通過して湾岸横浜を颯爽と貫く鉄路を眺めると、難工事を成した嘉右衛門の満足感を深く理解する事が出来ます。

※ 曹洞宗 「青木山 本覺寺」。横浜開港の歴史から現在まで、今日も高島台から横浜をゆったりと見下ろしている。京急神奈川駅と第二京浜国道青木橋交差点そばの高台に佇むこの寺は、往年の東海道と神奈川湊を見下ろし、江戸時代は神奈川宿の中心として興隆した。生麦事件発生の当日、負傷したウッドソープ クラークとウィリアム マーシャルの2人が馬で逃げ込み、治療を受けたのは、アメリカ領事館として使用されていたこの寺だったーーー。

     青木橋付近が切り通し的に山が切り取られている姿が以前から不思議だった筆者が記憶している話があります。三ツ沢上町に居し、代々造園業を営んでいる筆者の古い友人女史家に伝わる話で、いわく、三ツ沢は現在の倍近くもある険しい峠だったそうで、昼間でも鬱蒼(Ussou)と暗く、賊も横行しているような難所だった所を高島嘉右衛門が鉄道用地の埋め立てで山を削り、土砂を使用したおかげで現在の規模に落ち着いたと聞き、妙に納得した事がありました。この青木橋こそ高島嘉右衛門の手による「日本最初の立体交差」であり、鉄道線路の上に架けられた青木橋は横浜を行く「東海道」のメインストリートそのもので、高島台の山裾を通って保土ヶ谷宿へと続いており、現代でもその歴史遺産の旧東海道を散歩する事が出来ます。

     厳しい工事を終え、新橋(汐留) 〜 横浜(桜木町)間に鉄道が開通し、仮営業が開始されたのは、1872年(明治5年)5月の事でした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

 

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