*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。
2021年(令和3年)11月5日号 元町コラム
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!
【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その61
〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(38)
高島嘉右衛門が円熟の40歳代に突入した1872年(明治5年)のこと、居留地にオフィスを構えるドイツの商会が神奈川県下でのガス会社建設の申請中との情報を得た嘉右衛門は、外国にガスの権益を狙われていることを懸念して「日本社中」を立ち上げます。その結果、ガス会社建設の権利を得た嘉右衛門はフランス人技師を招いて横浜瓦斯会社を設立するに至ります。場所は現在、本町小学校が建つエリアになります。
この瓦斯会社設立がキッカケとなって、横浜・馬車道エリアに初めてのガス灯が灯ったのは1872年10月31日(明治5年9月29日)夕方の事でした。10月31日が「ガス記念日」に制定されているのはこのガス灯の点灯に由来しているわけですが、嘉右衛門がガス灯を利用して芝居小屋「港座」を開設し、大繁盛させたのはアイディアでした。同時に、嘉右衛門は念願の横浜港〜函館港間の定期航路を開設しますが、この事業は採算が取れなかった為、翌年、早々の撤退を決断します。何事にも決断の早い高島嘉右衛門でした。
※ 馬車道にある老舗・勝烈庵総本店の脇「六道の辻通り」の碑と、その向こうに見える同社のグループ、デザートも美味しいフレンチレストラン「馬車道十番館」。ガス事業の創始者、高島嘉右衛門家の旧跡に建っているーーー。
さて、横浜といえば、ミッションスクール(クリスチャンスクール)の発祥の地としても有名ですが、山手の丘に君臨しているフェリス女学院中学校・高等学校(Ferris Girls' Junior & Senior High School)は、嘉右衛門の高島学校に先立つ1870年(明治3年)、米国ヴァーモント州ワーズボロの出身で、日本に派遣されて定住することになる最初の独身女性宣教師「メアリー・エディ・キダー」(Mary Eddy Kidder、結婚後は Mary Eddy Kidder Miller)女史によって創立されました。
古くからの横濱人(ハマっ子)達は英語式発音の「フェリス」とは呼ばず、「ふえりす」と平坦に呼び習わすのが常で、昔、養蚕農家の長女だった筆者の母が、甲府盆地が一望出来る山梨県東八代郡八代村(現在の笛吹市八代町高家)から横浜に嫁いで以来、「ふえりす」は憧れの女学校でした。
※ ヒマラヤ杉と共に横浜の歴史をいつの時代も見守るように佇むフェリスの本館ーーー。
その我が母の夢は、小学校入学以来、親戚筋からは才女と呼ばれ、メキメキと実績を積み上げていた筆者の妹によって叶えられる事になるわけですが、高視聴率を誇ったNHKの連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)の『花子とアン』(2014年度上半期放送 )は、古き良き時代の甲州弁といい、都会の学校の雰囲気や外国人教師との触れ合いといい、生活環境や文化の違いに驚きながらも必死に乗り越えて行く主人公・吉高由里子氏が扮する「花子」に、母が妹と入れ替わって都会での学生時代を謳歌しているような錯覚に囚われながら楽しく視聴した記憶があります。
嘉右衛門が私塾「高島学校」(藍謝堂 / Ransya-do)を設立した背景にも、同じく、教育というものへの憧れや、1871年(明治4年)というその時代独特の背景があったわけですが、3万円という現在では億をはるかに超える私財を投じて語学学校を開設した高島嘉右衛門の心意気にこそ横浜の未来を感じざるを得ない筆者の今日この頃です。
高島学校は、横浜伊勢山下と入船町に開校され、敷地は1万坪、学生1000人を収容可能な大きな学校で、英語・フランス語・ドイツ語・漢学・算術を教える外国人と日本人の教師13人でスタートしました。前号でもお伝えしましたが、塾長に嘉右衛門懇意の福沢諭吉をという理想は叶わなかったものの、慶應義塾の教諭を多数揃えて、義塾と同等の授業を組んで学生交流を実行していましたから、世が世なら「横浜は東に女学校のフェリスあり、西に男子校のタカシマあり」と、君臨していたに違いありません。
高島嘉右衛門が学校設立の功により、1873年(明治6年)、明治天皇から三組の銀杯を下賜された後、嘉右衛門から学校を寄付された神奈川県によって川村敬三(Kawamura Norimitsu / 旧幕臣・彰義隊頭取などを歴任し戊辰戦争の平定に尽力、後に教育者に転身)率いる『同文社』と合併して『 横浜市学校』となり、『市中共立修文館』として発展が期待されましたが残念な事に翌年の明治7年に焼失し、その後、復興がなされませんでした。
※ S・R・ブラウンと修文館の生徒たちーーー。
記録によれば、洋学校・修文館は1866年(慶応2年)、江戸幕府によって役人の子弟に漢学を教授する場所として設立され、1868年(明治元年)に江戸幕府の崩壊と共に廃止されますが、当時の神奈川県行政機関である裁判所(地方制度)で教育機関を設置することになり、11月に弁天にあった旧英学所に文学所を、旧修文館に漢学科を再興した後、北仲通6丁目の旧武術稽古所跡に移転合併して「皇、漢、洋」の三科を設け、1870年(明治3年)5月には「書法、数学」の二科を加えた際に英学科が独立して野毛の旧修文館に移転しています。
その折に、この英学校の教師に就任したのがアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師だった「S. R. ブラウン」氏でした。当初、入学者は神奈川県の政府役人や県内の住民に限っていましたが、1871年(明治4年)に改正され、初めて県外の生徒が入学するに至ります。同年1月に、旧会津藩士「井深梶之助」(白虎隊士〜後に日本基督教会指導者、明治学院2代目総理)が東京にあった土佐藩洋楽塾を退学し、修文館の学僕(Gaku-Boku / 弟子として無給で奉仕し学ぶ者の意)として参入。その彼に、旧会津藩家老の娘との縁談話が持ち上がった際には、相手もキリスト教徒でなければならないと主張して、彼女をフェリス女学院に入学させ、洗礼を受けることになったものの、この縁談は成立しなかったとのエピソードが現在に伝えられています。
まさに、人に歴史ありで、高島嘉右衛門を語る上で登場してくる個々の人々にも壮大な物語があるわけですが、この井深梶之助もご多聞に漏れず、父の「井深宅右衛門」は旧会津藩の知行550石の学校奉行で「日新館館長」を務め、戊辰戦争では第二遊撃隊頭として越後方面に参戦。梶之助本人は叔父が近藤勇から贈られた銃を貰い受け、父と共に実戦に参加して死闘を繰り広げているし、梶之助の弟は衆議院議員の井深彦三郎、その娘で姪に日本のマザーテレサと後に呼ばれるようになるハンセン病患者を支えた「井深八重」がいます。また、白虎隊士の井深茂太郎や、井深家から養子として会津石山家に入り、白虎隊士として自刃した石山虎之助、加えて、民生局監察兼断獄の極悪人「久保村文四郎」に天誅を下し(束松事件)、獄死した井深元治、また、SONY創業者のひとり「井深 大」も親族のひとりであり、枚挙にいとまがありません。
「1871年のキダーさん(フェリス女学院の創立者)からの手紙」と題する前述の妹の投稿原稿を目にしたことがありました。そのキダーさんが故郷に送った手紙には「日本の生徒たちに讃美歌を教え、皆、上手に歌えるようになりました」と書かれている他、「日本人の子供が学校で唱歌を習って最初に歌ったのがフェリス女学院だった」との興味深い内容の話でした。
補足ながら、2018年6月2日、フェリスのO.G.会である「白菊会」の総会に出席した妹達の43年度卒業生たちは、卒業50年という節目の年を迎えており、総会後に元町に集結して盛大なクラス会が予定されており、相当盛り上がった様子が綴られていますが、白菊会総会の貴重な様子も知ることが出来ましたので、前述のキダーさんの手紙も含めて、本人には無許可で原文のまま転載させて頂いて今回の末文とさせて頂きたいと思います。
ーー卒業50年ということで、総会の後にクラス会を控えた我々43年度卒の学年有志が出席したのはフェリスの「カイパー記念講堂」での「2018年度フェリス白菊会総会」でした。当時のフェリス女学院大学の学長・秋岡 陽氏による「横浜と西洋音楽―宣教師の教え給いし歌―」というタイトルの興味深い講演があり、秋岡学長はピアノを弾きながら、当時の讃美歌の話や、讃美歌を作るというのは歌詞そのものを作るという事、つまり、曲には定型があるのでそれに歌詞をつける事が賛美歌を作るということだとか。また、「君が代」発祥の妙香寺に薩摩藩が軍楽を習いに来ており、山手の丘が吹奏楽の発祥の地である事。すぐお隣りのような場所で薩摩の武士たちが軍楽を習っていたという事に不思議な思いが致しました。また、最初のフェリスの校舎は今の元町・中華街駅、元町側のアメリカ山付近にあったという話も出ました。ちなみに、総会が開かれたカイパー講堂というのは、第3代校長の「ジェニー M. カイパーさん」のことで、夏休み明けの生徒の為に早めに準備をしようと軽井沢から横浜に急ぎ戻った折り、1922年9月1日の関東大震災により校舎倒壊焼失で殉職された事に由来していて、1928年の新校舎落成と同時にカイパー校長を記念する「カイパー記念講堂」が完成したという経緯がありました。 節子ーー。
まさに、人に歴史あり。街角にもストリートにも、丘の木々にも歴史溢れる横浜元町・山手。そんなエリアに、今年も歴史を織り込んだような美しい「秋」が訪れています。(続く、、)
Tommy T. Ishiyama