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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)10月20日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その60
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(37)     

  1871年(明治4年)、高島嘉右衛門は横浜にスイス人のカドレー、アメリカ人のバラ兄弟などを招き、西洋人の教師による英仏独の3ヶ国語を教える語学中心の「藍謝堂」(Ransyado 通称「高島学校」)を創設します。真っ先に福澤諭吉を招いたものの実現に至りませんでしたが、福澤は代わりに弟子の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎らの慶應義塾の高弟を講師として推薦すると同時に、その派遣に尽力を惜しみませんでした。

     その頃の世の風潮はと言うと、鉄道の開通で人々の移動はもとより、時間という概念の速度まで早まった実感を皆が得た反面、明治新政府が一向に動きを見せないことに、どよめきとも憤(ikidoh)りともとれるため息が各方面で漏れ出していました。

     徳川幕府を倒すことだけに躍起になり、「新しい日本を創る」という言葉の熱量だけが渦巻いていただけで、具体的に誰が何を担当してどんな組織で新しい国を作って行くかといった計画性が皆無だった政府ですから、行き当たりバッタリで立ち往生するのは至極当然の結果でした。新政府の内部は薩摩、長州、土佐と、旧態依然とした藩閥の縄張り争いと権力闘争ばかりに時間だけが流れていたのです。

     税を徴収する仕組みも請求額の算出手段も無かった為に政府の金庫は空っぽ。財源が確保出来ないままの政府の混乱状況の中で、これまでの経験と機転だけを武器に獅子奮迅の活躍をしていたのがパリ帰りの渋沢栄一こと、徳川慶喜の直参だった渋沢篤太夫(Shibusawa Tokudayu)でした。

     このくだりは、折しも本年度、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で恰好のテーマとして展開中ですが、優秀な徳川の旧幕臣たちが奮戦して、四苦八苦しながら泥沼にハマったボロ車のような明治政府をズルズルと、陽の当たる場所に引っ張り出そうとしていたわけですから、人間の運命というものは不思議なものです。

     思うに、明治維新は、何をもって「維新」とするかは人それぞれな感じも致しますが、言葉自体は明治24月、“報国義烈士”の筆名による檄文にも「維新」の文字が見られるほか、明治初年度の段階で『維新御布告往来』(明治5年)など、「維新」を謳う書物が散見されるものの、まだまだ一般的な言葉ではありませんでした。

     明治10年代になって、やっと、坂本南海男の「政論」(明治10年)に「今日ノ人民ハ維新初年ノ人民ニアラズ」とあるほか、丸山名政(Maruyama Namasa / 明治大正の政治家・実業家)の「維新論」(明治14年)などにも「維新」の文字が見られるようになりますが、庶民にこの文字が浸透するのは明治20年代以降であり、時代の変革をリアルタイムで体験して来た人々には、まだまだ「御一新」の方が実感が伴っていた時代でした。

     筆者の尺度としては、「廃藩置県」(Haihan Chiken)こそが、ある意味「明治維新」だったと実感出来るわけですが、廃藩置県とは、丁度、前述の、嘉右衛門が高島学校を設立した明治4年7月14日(1871年8月29日)に明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革でした。それはつまり、これまで藩に入っていた税収(年貢 / nengu)を、全て新政府のものとして徴収し得る事を意味していました。

※明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。10時に鹿児島藩知事/島津忠義、山口藩知事/毛利元徳、佐賀藩知事/鍋島直大、高知藩知事/山内豊範 代理 板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げ、次いで、名古屋藩知事/徳川慶勝、熊本藩知事/細川護久、鳥取藩知事/池田慶徳、徳島藩知事/蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中の56藩の知藩事が召集され、詔書が下されたーーー。

     これまで、300弱も存在していた藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後に県は統廃合されたのです。2年前の「版籍奉還」によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束されると同時に東京での居住が強制されましたが、元来、東京出身の藩主や奥方達が殆どでしたから渡りに船のようなもの。加えて、身分は平民になるものの、藩主にとっては大きなメリットがあったのです。

※「藩を廃し、県を被置そうろうのこと」、廃藩置県の沙汰書面ーー。

廃藩置県後の分布図ーーー。

     調べてみると、全国260藩のうち藩札を発行していたのが240藩以上に上ります。藩札というのは債権のことです。これを国が肩代わりすることになるわけですから、言い換えれば、大赤字の会社の社長が、その座を降りるかわりにこれまでの個人保証の借入金を全て肩代わりして貰える訳ですから文句の出ようがないのも当然でした。

     この藩札という借金は、殆どが戊辰戦争の影響を受けてのものでしたから諸藩は多額の債務を背負っており、百姓一揆も頻発し、解決不能の各藩には治療が不可能な頭痛の種だったのです。そこへ「廃藩置県」という「その土地を治める事はお断りするけど、借金は肩代わりしてあげるという処分が出たよ」というわけですから、諸藩から反発が出る理由も無かったのです。加えて、旧藩の収入の10分の1をくれると言うのですから、明治政府としても旧藩主家に対して気を使ったというか、この上ない厚遇を与えたわけです。さらに、版籍奉還の際、旧藩主たちは知藩事への任命権を自ら天皇に返還していましたから、廃藩置県に反抗の意を示すことは理論上困難となっていたという背景がありました。

     しかし、1部には主従関係の崩壊による精神的な寂しさがあった事も事実でした。長州藩の記録によれば、新政府の要人として説得に訪れた旧家臣の木戸孝允(Kido Takayoshi)に対して、藩主、毛利敬親公が「もうこれでそち(木戸のこと)とは、真に主従ではなくなるのだなぁ」と寂しそうに語ったとあります。

     その一方で、常に体制に抗(araga)う者を毛嫌いしていた薩摩の島津久光だけは、反乱士族として明治政府を無視しており、廃藩置県に際しても反抗の思いから自邸で一晩中花火を打ち上げていたとの事で、映像として想像すると、ある意味、イタズラ坊主の悪あがきのようにも見えて参ります。その気概からか、彼は生涯帯刀・和装を辞めなかった訳ですから、ある意味、ラストサムライの一人であったとの称号を元町コラムとして贈呈することに致しましょう。

     さて、そんな明治政府の内部で、テンヤワンヤを取り仕切った一人が渋沢栄一でした。調べると、明治時代初期 (1877年) の政府官僚5215人のうち、旧幕臣が1755人。なんと3人に1人が旧幕臣でした。しかも、彼らが実務の中心をなしていた事は、教科書には全く出て来ません。そう、歴史は勝った者側の記録だからに他なりません。

     才能を買われて参画した旧幕臣は、明治政府に招かれた者や、あるいは非公式な形であっても明治政府から頼りにされて招き入れられた者というわけですが、榎本武揚、勝海舟、福沢諭吉のように、貧乏御家人・貧乏旗本の家の出だったり、幕末期に必死で欧米の学問を身に着けて出世の道を自ら切り開いた者、また、先祖をたどると武士ですらなく、父や祖父の代に御家人株などを買った家の者で本人が幕末期に出世した者、更に、他の大名家の下級武士医者・商人・農民など武士階級ですらない者などで欧米の学問を身に着けた者を直参として抜擢したのです。

     こういう人材が1755人もいて、加えて、明治政府に出仕したくてもできない者たちも多く存在していましたから、潜在的には「新政府として重宝する人材」が無尽蔵に存在していた時代ということが出来ます。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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