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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2020年(令和2年)5月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その25

〜高島嘉右衛門さんの事 その(2)

 

コロナ禍(Covid-19)の外出自粛に応えて、再放送の人気TVドラマ「仁 Jin 特別編」を観ていて痛感した事は、かの時代から今日までの僅か160余年での驚異的な医学の進歩でした。

特に、武田鉄矢さんが扮する江戸時代後期の蘭学者で天然痘治療に貢献した第一人者、医師「緒方洪庵」(Ogata Kouan) の医療に挑む真摯な姿と、不治の病と言われていた自らの肺疾患について、「未来の国では、この病は治せる病になっているので御座いましょうか?」と問い、それに頷く仁先生の顔を見ながら、嬉しそうに微笑む姿に温かい感動を覚えました。

その当時、既に世界有数の大都市に発展していた江戸では、時代を前後しながらも、歴史に名を残す幾多の人物が行き交っていたわけですから、そんな時代にタイムスリップして、何を考えどう生きてきたのかを、是非、本人に尋ねてみたいものです。

 

元町には明治から洋書・文房具を扱う店として出発し、
現在は和書も加え、年2回の洋書バーゲンセールを開催
する「高橋書店」がありますが「一冊の本があれば地球
の裏側に旅することが出来る」と、フォーク調のCM
ラジオから流していた「有隣堂」も有名です。つまり、
1冊の本さえあれば、どんな過去へも未来のへもタイ
ムスリップが出来る」わけですから、「本」こそタイム
マシンそのものなのかも知れません。

天保3(1832)、花のお江戸のど真ん中、三十間堀町(現在の中央区銀座)で生まれた嘉右衛門は、幼名を清三郎(Seizaburo)と言い、後に、父の名を継いで、嘉兵衛(Kahei)、そして嘉右衛門(Kaemon)と、名前の移り変わりと共に輝かしい波乱の人生を歩んで行くわけですが、父親の薬師寺嘉兵衛は常陸国(現在の茨城県)の出身で、江戸の材木屋「遠州屋」の手代から叩き上げると、その暖簾を分け継ぎ、三十間堀の同町内で同じく材木商を営んでいました。

幼少の頃から、優秀で記憶力の良かった清三郎は、父の教えに従い、儒教の中でも特に重要な『四書五経』(Shisho Gogyo)や『六諭衍義』(Rikuyu Engi)を熱心に学んでいました。『六諭衍義』とは、明の洪武帝が1397年頃に発布した「孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、毋作非為」、つまり「父母を敬い従いなさい、年長者を尊敬しなさい、故郷を大切に思いなさい、子供たちの躾けを熱心に、自らの健康管理に励みなさい、悪事を働いてはなりません」の六言の事を言い、後の日本の教育勅語にも影響を与えた書物です。

『四書五経入門書』(平凡社ライブラリー)
現代にも通用する思想と名言が網羅されている。

少年、清三郎(嘉右衛門)は、本を何回か読めばすべて覚えてしまうほどの記憶力に恵まれ、14歳になると父の営む材木商兼普請請負業や製鉄事業(盛岡藩)に従事するようになります。この時の父・弟とともに働いた東北での7年間の経験がやがて横浜の地で開花するわけですが、令和の今日、山手十番館の資料館に足を運び、所蔵されている多くの資料を貪り読む毎に「高島嘉右衛門無くして今日の横浜の興隆は無かった」事が実感として伝わって参ります。

明治時代の横浜を築いた先駆者、高島嘉右衛門の
旧宅跡に毅然と建つ馬車道十番館。勝烈庵十番目の
店舗なので十番館と命名したと聞いている。港へと
続く正面の道路は「六道の辻通り」と呼ばれ、嘉右
衛門の埋め立て事業が実施される以前にあった州干
(Syu kan Jima)の州干弁天社へ直結していた。

 話を少々戻しますが、嘉右衛門が誕生して、まだ乳離れもしていない天保4年(1833年)の夏、遠州屋に大事件が降りかかります。この事件が後々の嘉右衛門に不思議な縁となって大きな影響を与える事になるわけですが、スヤスヤと奥座敷で眠る幼子は、当然の事ながらそんな大事件を知る由もありません。

当時、父親の薬師寺嘉兵衛が出入りを許されていた得意先に盛岡南部藩(岩手盛岡)がありました。その江戸屋敷から重臣3名が夜明けを待ち構えていたかの様な勢いで遠州屋を訪れると、早飛脚で知らせて来た国元の窮状を嘉兵衛に訴え、援助を懇願したのです。

それは、真夏なのに領地一面に霜が降りるなど、まるで冬の襲来のような冷害に見舞われた国元の惨状でした。盛岡藩の領民60万余の命に関わる窮状を知った初代嘉兵衛が顔面を蒼白にしながら咄嗟に考えた事は、南部・盛岡がその様な状況ならば、近隣の仙台、秋田、津軽などの各藩も状況は同じだろうと言うことと、助けを求めるにしても、それは遠くにあって自然環境が異なる他藩へ相談を持ちかけるしかないという事でした。

実力を認められて遠州屋から分家した初代嘉兵衛でしたが、当時の商習慣として本家の顧客までは分けてもらう事は出来ないわけで、全ては自分1人で新規顧客を獲得の為に日参し、努力を積み重ねて、やっとの思いで出入りを許されたのが、現在は港区南麻布の有栖川宮記念公園の場所にあった南部盛岡藩・江戸下屋敷だったのです。江戸の盛岡藩邸は三つあって、上屋敷は外桜田にあり、その全ての屋敷に初代嘉兵衛は出入りしていたわけですが、もうひとつ、信用を築いた嘉兵衛が出入りを許されていたのが、門が独特の形をしているのが有名だった肥前藩(佐賀、鍋島氏)の中屋敷でした。

肥前鍋島ならば冷害は皆無だろうと閃いた嘉兵衛は、駕籠を用意させると鍋島家の江戸屋敷を目指して遠州屋を飛び出し、到着するや、切々と南部の窮状と、60万余の民が餓死する恐れがある事を訴えます。勿論、折から江戸に滞在中だった藩主直正には目どうりが叶うわけではありませんから、信用を得ている顔見知りの重役に談判したわけです。

嘉兵衛が繰り出す言葉は実に論理的で、その話を取り継がれた藩主直正は納得するや、即座に南部氏への救済米を算出するために帳面を取り出させると、盛岡南部藩の領地の広さから判断して、20万石の家領に対して収穫は三分作の6万石程度は望めるだろうと読み切ります。

更に、直正は、南部氏領内の農民の主食が稗(hie)、粟(awa)、楢(nara)や橡(tochi)の実、日の子と呼ばれている海藻である事も熟知しており、寒冷地に強いそれらの木々が全滅する事はないと判断して、予想した冷害による収穫高の6万石を加味して、肥前の国元から3万石を南部藩に送れば餓死者を出さずに済むだろう、、と決済したのです。

関心しきりの嘉兵衛に、直正は更に、津軽の冷害は直ぐに大阪にも知れ渡り、即日、米相場が高騰することと、鍋島としては米相場に上乗せして利益を上げるつもりなどは無い事を告げ、翌日の江戸の米相場をもって3万石の米を譲渡する旨を約束して、それを書状にしたためたのです。

米3万石の代金は約10万両と言うことになりますが、米の相場は天井知らずの高騰を遂げる事は確実で、その金額は何倍になるかは想像も付きません。南部江戸屋敷へ喜びの報告に向かう籠の中で、初代遠州屋嘉兵衛は早朝からの緊張を解きほぐしながら、北の遠い他藩の情勢にも詳しい肥前鍋島藩主直正の聡明さに感心しきりでしたが、その彼を待つ盛岡藩南部氏には10万両はおろか、僅かな貯えすらも無いことを嘉兵衛は、まだ、知りませんでした。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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