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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

 

2020年(令和2年)4月5日号 元町コラム
横浜開港200年〜Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、、その23

皆さまお変わりありませんか。世界的な新型コロナウィルス禍はオリンピックイヤーとして秒読み段階に入っていた東京オリンピック2020の開催を、1年後に延期という苦難の選択を生み、一層、混沌とした日々を私たちに投げかけています。

「禍福(Kaifuku)は糾(azana)える縄の如し」。

古き言葉にあるように、幸せと不運は裏表一対で代わる代わる訪れるものですので、人類が幾多の時代を超え、数々の惨禍を克服して来た歴史を信じて、今を乗り切るしかありません。

そんな思いで、山手の丘から外国人墓地越しに広がる横浜を眺めながら、セピア色の時代を探すように目を凝らすと、元気に生き抜いて来た先人達の気合や勇気を感ずる事が出来て、自信が湧いて来るから不思議です。

さて、そんな先人達が生きた時代の一つとして、前号で述べた神奈川宿は、現在の京浜急行線神奈川駅付近から連なる袖ヶ浦と呼ばれた美しい入り江に沿って存在し、現在の横浜エリア一帯も同様に、その美しいラグーンを埋め立てて造成された新田地域だったわけですが、埋め立てが進んでいない沼地も多く残されていたため、本町通を中心とした好立地の土地をめぐる埋め立て競争が激しかった様子を資料から読み取る事が出来ます。

有名な吉田新田は別格として、横浜新田は現在の中華街に変貌し、太田屋新田は横浜新田の東側に隣接した沼地を埋め立てたものでした。

※日本最初の鉄道敷設の為に、明治3年、開通の前年から引き継がれた堤防のような埋め立て地。手前の海が袖ヶ浦で現在の横浜駅西口一帯はこの海の中に位置し、家並みは東海道。新橋駅(現在の汐留駅)から続く線路は青木橋の下をくぐって写真左端に見える国鉄「神奈川駅」を通過すると大きく左にカーブし、真ん中に見える建物が昭和3年に開業した3代目横浜駅。そして、その先のひと群れの建物が「初代横浜駅」、現在の桜木町駅付近だ。 (横浜開港資料館 所蔵)

※明治5年(1872年)開業の初代横浜駅(現在のJR桜木町駅) の着色写真。(JR東日本 所蔵)

※3代目横浜駅。横浜の表玄関と呼ばれた東口正面玄関。昭和3年の完成直後から発展が開始された。筆者の青春時代の思い出が詰め込まれているこの駅舎は、広い構内と高い天井にこだまするアナウンスや団体専用のエリアに並ぶ制服姿の修学旅行生の高揚した声が反響して、ミラノやパリの中央駅、そしてロンドンのヴィクトリア駅のような風情があった。

この3代目の横浜駅は、昭和3年(1928年)の昭和天皇の御大典のお召し列車に間に合わせるために至難の工事を1年半で完成させたもので、その見事な建築様式は当時のマスコミから「東洋一の新横浜駅」とか「東京~横浜間では随一の新様式」と絶賛されました。

その当時から海側は「東口」と呼ばれてメインの出入口でしたが、西口は「裏口」と呼ばれて寂れていたわけですが、終戦後も資材置き場として米軍に接収されるなど閑散としており、当時の航空写真には相模鉄道の貨物の引き込み線らしきものが写っているだけでした。

元来、相鉄線は相模川の砂利の貨物輸送を請け負っていましたから、借地として西口を砂利置き場に使用していた可能性もありますが、土地の取得に横浜市と競合した相模鉄道が、土地所有者だった石油会社から土地の入手に成功して、昭和30年代に相鉄が本格開発に着手するまでは荒れ放題の空き地で、筆者の小学生時代も砂利や材木置き場の薄汚れたさびしい場所だった記憶があります。

横浜駅がある辺りは明治から大正にかけて造成された埋め立て地で、その骨格になったのは、高島町にその名を残す高島嘉右衛門(Takashima Kaimon)よって明治初期に埋め立てられてできた土地で、埋め立て直後からスタンダード石油とライジングサン石油という2つの石油会社が土地を所有しており、工場を操業させていましたが、ライジングサン石油が持っていた土地にほぼ現在の横浜駅が建てられています。

そんな寂れた場所、現在の相鉄ジョイナスがある場所にアーケード式の名店街が出来たり、野外にむき出しのローラースケート場も出来て発展して行くわけですが、それまでの景観も治安も悪い西口は市民には余り評判が良くなかった事が当時の神奈川新聞からも読み取る事が出来ます。

結局、横浜駅は明治5年に日本で最初の鉄道が開通してから、昭和3年に現在地に落ち着くまで桜木町駅を皮切りに、高島町、そして現在の横浜駅と3度も場所を変えて来た歴史があるわけですが、大正5年(1916)8月15日に「高島町」に開業したのが2代目横浜駅でした。

それまで東海道線の急行列車は市街地から離れた平沼駅(現相鉄線平沼橋駅付近)に停車するので不便を強いられていましたから、線路を迂回させて2代目横浜駅を新設することによって、初代横浜駅を「桜木町駅」に変更したわけですが、この折角の2代目横浜駅は、残念にも、関東大震災で焼失したため、僅か8年の短い期間だけの存在でした。

※立派だった2代目横浜駅(横浜停車場)。
大正4年(1915年) 、高島嘉右衛門由来の町名、高島町1丁目に建設された2代目横浜駅。初代横浜駅は桜木町駅に改称された。
(横浜手彩色写真絵葉書 大正時代製より)

※近年、高島町の交差点脇、高島交番の後ろにあるマンション建設の際に、2代目横浜駅の駅舎の一部が発掘保存され、また地下の遺構も硬化ガラス越しに、自由に見学する事が出来る。

まさに、明治初期の横浜港埋め立て事業が促進されたお陰で、現在の横浜が発展しているわけですが、それらの事業に携わっていた筆頭が「横濱の父」と呼ばれた「吉田官兵衛」であり、その官兵衛と共に「横濱三名士」と呼ばれたのが「苅部清兵衛」、そして、数奇な運命と共に、横浜に多くの名を残す偉業を成し遂げた「高島嘉右衛門」さんでした。その嘉右衛門さんがいよいよ元町コラムに登場致します。(続く、、)

 

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

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