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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)4月20日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その69
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(46 / 最終回)              

==== 虚空無限 (Kokuu Mugen)====

     高島嘉右衛門は、易断により必死で渡航を引き止めた伊藤博文が異国の地で兇弾に倒れて以降、責任が伴う占断は一切しなくなりましたが、横浜高島台の邸宅で、80歳を過ぎても、要人の来客対応や易に関する講義をはじめ、自伝編纂の為の協力を惜しまない日々を送っていました。

     やがて、自らの死期を悟っていた嘉右衛門が「虚空無限」という言葉をつぶやき続けるようになりますが、その背景には、若き日に鉱山事業に専念していた際の占い師の言葉がありました。それは、かの奥州釜石の地で、自分の死期を悟った仙人のような老師・白雲道人が書き残した言葉でした。

     この「虚空無限」の大意として「人が悟った範囲のものこそが真実であり、その真実は人それぞれであり、それは無限に存在する」との解釈が可能ですが、文言で表現するには余りにも深い哲学的な言葉です。嘉右衛門は自らの心に染み込ませたその言葉に呼応するように、死の数日前に言葉を残しています。それは「ことごとく易を信ずれば、易なきにしかず」というものでした。

     「見境い無く易ばかりに頼るのであれば、易など無い方がましだ」と解釈出来ますが、それは、人それぞれの努力があった上での易断であるべきことを示唆したわけです。大正3年(1913年)10月16日未明、高島嘉右衛門は枯れ尽くした大樹のように81歳の波乱の人生を締めくくりました。

     この世の五感で感じられる全ては、本当は実体がないものと般若心経で説かれている如く、現実で目に見えている全ての実体は、そのものではなく、それは「空」(kuu)である。現代風に表現するならば、空とはエネルギーであり、素粒子と言うことになりますが、これを大昔に見抜いて、言い当てた言葉が「虚空」であり、エネルギーが充満している空間、つまり、未来を表現した言葉が「虚空無限」。易断という未来を見据える能力を駆使していた嘉右衛門だからこそ、生涯、深く心に残った言葉だったのではないでしょうか。

※ 満開の桜と共に、山手の丘に凛と佇む「山手資料館」。高島嘉右衛門の豊富な資料が収蔵されているーーー。

     令和4年の桜が勢いよく新芽を吹き、早くも来年の準備を開始したような葉桜の季節を迎えた今日の山手の丘、嘉右衛門が得意とした木造式建築の西洋館が「山手資料館〜横浜市内に残る明治期唯一の木造西洋館」として凛と佇んでいます。

     元町を見下ろしている港の見える丘公園・山手外国人墓地など横浜が誇る歴史的・文化的な自然環境の中にあるこの建物は、明治42年建造の『和洋併設型住宅』の洋館部分を移築した「横浜市認定歴史的建造物」で、馬車道の老舗、株式会社勝烈庵が創業50周年記念事業のひとつとして、昭和52年(1977年)年4月に山手諏訪町にあった中澤兼吉邸を同社が運営する「山手十番館」の同敷地内の庭園に移築保存し山手資料館として開館しました。

     ちなみに、「山手十番館」は母体である勝烈庵の十番目の店として昭和42年(1967年)に明治100年を記念して建てられたものと伺っています。園内には横浜・馬車道に初めて点火されたガス灯が2基、復元された懐かしい光を放っていますが、当時のそのガスは、高島嘉右衛門が明治5年(1872年)10月31日に現在の本町小学校の場所で興した日本最初の都市ガス事業によって供給されたものでした。

※「横浜名勝競 伊勢山下瓦斯本局雪中の一覧」(歌川国松の木版画 / 明治13年 1880年)。高島嘉右衛門によって横浜の伊勢山下に設立された日本最初のガス会社の工場風景。地中に埋設されたガス管によって馬車道や本町通に設置されたガス燈が暗かった横浜の夜を明るく照らしたーーー。

     その後、「株式会社 横浜十番館」として独立した勝烈庵グループによって、馬車道十番館、別館馬車道十番館が開館されて現在に至っていますが、横浜・関内の開港当時の面影を物語る数多くの建造物や資料が大正の震災や戦災でそのほとんどが失われてしまった為に、馬車道十番館はその頃の建築様式を参考に明治の西洋館が再現され、館内では文明開化期の香りを伝える数々の資料が古き良き時代を物語っています。

      この場所こそ、機会あるごとに申し述べて来た高島嘉右衛門家の旧跡であり、明治の高官・名士が集う社交場となった嘉右衛門の「高島屋」があった場所になります。

※ 令和4年(2022年)春。3年ぶりに開催された「第16回 セントパトリックス デーパレード横浜元町」に参加取材中の筆者。2004年からスタートした元町コラムも満18年を終了し、おかげさまで19年目に足を踏み出していますーーー。

     元町の催事を終えた夕暮れ時、馬車道通りから1本入った「六道の辻通り」を散策しながら、復元された柔らかなガス灯の光の中、馬車道十番館の窓辺に目を凝らすと、時代を越えて、在りし日の高島嘉右衛門が厚い易断経本を前に筮竹をさばき、易を立てている姿が目に浮かんで参ります。

     偉大な先人諸氏の遺志を引き継いで、我ら「元町・山手」と「中華街」、そして「山下町・関内馬車道」のエリア、いわゆる「セントラルタウン」を形成している「YMC協議会」の堅固な連携が、明日の横浜を見守っている事を申し添えて、呑象こと高島嘉右衛門さんの特集の結びと致します。

Tommy T. Ishiyama

 

   

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