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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)10月5日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その59
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(36)    

     1872年(明治5年)の日本第1号となる鉄道の開通・開業は明治という新しい時代の幕開けとして強烈なインパクトを人々に与えたのと同時に、横浜開港と共に今日の横浜の大発展が約束されたような重要要因のひとつとなりました。

     ところで、森 鴎外の作詞による横浜市歌に「むかし思えば苫屋(Tomaya) の煙、ちらりほらりと立てりしところ」とありますが、苫屋は一般の民家というより、塩分の多い川に囲まれた横浜の塩田や埋め立てた湿地に点在していた塩焼き小屋と解釈する次第ですが、そこで働く皆は鉄道が横浜にやって来る時間を見計らっては、作業の手を休めて小屋から飛び出し、あぜ道に座って煙管(Kiseru)を燻らしながら、「大したもんだのう」、「おか蒸気が吐く煙は力強いのう」などと遠見の見物を楽しむのが日課となりました。

     この鉄道開通という歴史的瞬間を起点に時間を少々巻き戻せば、蝦夷(北海道)での新国家建設を目指した土方歳三が箱館(函館)を死地と決して新政府軍と戦い、戦死したのが僅か3年前の明治2年5月11日(1869年6月20日)の事。それを更に2年遡る慶応3年11月15日(1867年12月10日)には坂本龍馬の暗殺、いわゆる近江屋事件が勃発したり、その直前の大政奉還など、現在のメディアなら連日の大騒ぎになる大事件が続きました。

     「10年ひと昔」とよく言われますが、鉄道開通の前後10年を眺めるとまさにその通りで、生麦事件(1862年 / 文久2年)、薩英戦争(1863年 / 文久3年)、鳥羽伏見の戦い(1868年 / 明治元年)、版籍奉還(1869年 / 明治2年)、廃藩置県(1871年 / 明治4年)と目まぐるしい世相を背景に鉄道敷設の準備が進み、更に、その後は、徴兵制の布告(1873年 / 明治6年)、廃刀令(1876年 / 明治9年)、西南戦争(1877年 / 明治10年)と、日本の歴史の大変革が新聞の大見出しのように並ぶ日々を背景に鉄道が走っていた事になります。

※ 生麦事件の被害者3人が眠る墓所。イギリス人商人「リチャードソン」(Charles L. Richardson, 1833年4月16日 - 1862年9月14日)が十字架の石碑の下に眠る横浜山手外国人墓地の一角。左の石碑はウィリアム・マーシャル、右にチャールズ・クラークが眠る。元町プラザの傍を直進し、ウチキパンを通り越して直進。墓地に沿った細い側道を30メートル程度進むと金網越しにいつでもお参りできるーーー。※ 嘉右衛門が埋め立てたエリア、高島町の興隆の様子が広重によって描かれている。タイトルも『横浜新埋地高嶋町揚屋三階造海岸遠景之図』広重 出版者 丸屋鉄治郎 明治6年ーーー。

※ 『東京汐留鉄道御開業祭礼図』 歌川広重三代 個人蔵。
旗と提灯で飾られたプラットホームが賑々しく鉄道開通の喜びの大きさを表現している。「提灯による装飾」は鉄道頭・井上勝の考案によるもので、その後の鉄道開業・開通式でも多用されたーーー。

     「おい、コラッ」と偉そうな態度で不評だった当時の警察官同様、鉄道のスタッフも士族の出身者が多くを占めていた事から乗客への態度は極めて横柄な様子でしたが、機関士と運行ダイヤの作成や管理指導は、通称「ページ先生」と皆に親しまれていたお雇いイギリス人技師、「ウォルター ページ」(Walter F. Page / 後にサミュエル商会〜ライジングサン石油重役に就任)によって実施されていたと記録にあります。

     風光明媚な車窓の景色は、路線工事を容易にするために海岸付近への線路敷設が実行されたおかげですが、全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路ですので、これこそ「日本のアクアライン第1号」と呼んでも差し支えないと思う次第ですが、この海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるために約6.4mの幅の堤を建設して線路が敷設された経緯があり、「高輪築堤」と呼ばれていました。

     この築堤は1870年に着工され、両側には石垣を積み上げ 、船が通る4箇所に水路が作られていましたが、明治末期から昭和初期にかけて付近の埋め立てが進んだために正確な位置が不明になっていたところ、2019年の新駅「高輪ゲートウェイ駅」建設の為に西側周辺が再開発された際に約1.3kmにわたって高輪築堤の遺構が発見されて大きなニュースになりました。

     高島嘉右衛門も、旧神奈川駅から横浜駅(現在の桜木町駅)までの約1.4kmに幅65m(うち線路部分は約9m)の堰堤を建設しており、大正時代までに周辺の埋め立てが進んだ結果、堰堤は消滅しましたが、跡地は現在でも線路や国道16号として使用されるに至っています。

※ 初秋の陽ざしが心地よい横浜山手外国人墓地。若き人生の全てを日本鉄道の建設に捧げたイギリス人技師・エドモンド・モレル(Edmund Morel 1840年11月17日 - 1871年11月5日 / 明治4年9月23日)が眠る墓所は鉄道記念物に認定されている。10月14日の「鉄道の日」や命日には関係者で賑わう。また、桜木町駅構内には「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されているーーー。

     日本の鉄道について、注視すると共に常に建設的な提言を行って来たのが英国の駐日公使「ハリー パークス」(Sir Harry Smith Parkes)でした。その存在の大きさは旧幕府はもとより新政府の皆も認めるところで、1870年(明治3年)に来日したイギリス人、エドモンド モレルが建築師長に着任した事によって鉄道工事が本格的に始まり、日本側からは1871年(明治4年)に鉄道国有論者としても著名だった井上 勝が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わったお陰で工事が順調に捗(Hakado)った経緯がありました。日本の鉄道敷設に生涯を捧げたエドモンド モレルは、今日も静かに、元町を見下ろす山手の丘から横浜を見渡していますが、第1号の横浜駅であった桜木町駅構内には記念のレリーフが存在しています。

     ちなみに、鉄道開業の翌年、1873年(明治6年)の営業収支は、1日あたりの乗客総数が平均4347人、年間の旅客収入42万円と貨物収入が2万円、そこから直接経費の23万円を差し引いて21万円が利益として計上されています。この結果「鉄道は儲かる事業である」という認識が新政府の確固たる信念として根付いたのです。(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

  

 

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