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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2022年(令和4年)3月20日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その67
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(44)              

     高島嘉右衛門と遊郭誘致、、不思議な組み合わせですが、鉄道用地埋め立ての功により入手した自らの名を冠に頂く高島町への遊郭誘致にも嘉右衛門は持ち前の切れ者ぶりを発揮します。

     時の神奈川県令・陸奥宗光を動かし、横浜の一等地(現在の横浜公園・横浜スタジアムの一帯)にあった港崎遊郭(Miyozaki Yuukaku)の強権的な移転命令、その移転先は崖と墓地ばかりの僻地であった太田久保山の地でした。そのおかげで、窮地に立たされた港崎遊郭の顔役たちの相談役的な立場になった嘉右衛門でしたが、それは嘉右衛門の思うままの方向に全てが動き出すお膳立てが整った瞬間でもありました。

※ 「横浜高島町神風楼(Jinpuu-Roh)之図」(横浜市中央図書館所蔵)豪華な造作の楼閣が堂々とした風格で描かれている。浮世絵には遊郭の目前を走る鉄道が描かれ、現在の有名地方都市の駅前風俗街と同じロケーションがそこに展開されていたことが読み取れるーーー。

      嘉右衛門による高島町への遊郭誘致の第1歩は、僻地への移転命令が出された彼らに代案を持ちかけることでした。まず、高島町に東京の遊郭出店計画があることを述べると、港崎遊郭もそれに便乗してはどうかという巧みな誘いで、役所の命令を覆(kutsugae)して交通の便が良い高島町へという移転案でしたから顔役たち2人が話に乗らないわけはありません。

     早速、話を持ち帰って町の皆と相談するという港崎遊郭の主人達を、嘉右衛門は機先を制して引き止めるや一気に話を畳み込みます。

     まず、東京の一流店が来ること、加えて、嘉右衛門の自らの土地は鉄道敷設の際の海面埋め立て工事によって国から得た土地故に、どの様な目的にも使用が可能な政府発行の覚書がある事、そして、何より大切な移転新築の為の資金がここにある、と言いながら、その場で1万両を無利子で貸付けたのです。

     話を持ち帰られたのでは決定が遅れるのは目に見えているし、下手をすると話がこじれて移転が叶わないかも知れないわけです。危険を回避した嘉右衛門は普請の手配の仕方まで彼らに伝授すると、神業的な速さで高島町遊郭の建設に着手したのでした。

     即座に蒸気列車で東京に向かった嘉右衛門が大店の誘致交渉に臨む一方、移転命令に降って湧いたような大騒ぎの港崎遊郭に戻った顔役2人は、町中の者を集めて説得に移り、結局、町の大店2軒が既に進出を決定していた事から、町全体の高島町移転案がアッサリ決まったのは当然の結果でした。

     こうして、明治の初め、不夜城と言われた高島町遊郭は生まれたわけですが、嘉右衛門は届書を提出しただけ、県令陸奥宗光は一言も発せずにこれを受理した結果でした。

     これまで、何事もなく安穏に港町(現在もスタジアム前の旧横浜市役所の住所は横浜市中区港町1丁目1番地)で営業を続けていた遊郭を、嘉右衛門が強引に高島町に誘致出来た背景には何があったのか? 名が知れ渡っていたとは言え当時の嘉右衛門は一介の商人であったわけで、一般の有識者と何が違うかと言えば、嘉右衛門がありとあらゆる進退について「易」を立て、それを規範にしていたという事が頭をよぎります。

     「易=陰陽五行の思想」という素養があったからこそ、遊郭にしろ公共事業にしろ、教育事業も含めて自分の生き様と言うものをその都度見極めていたわけで、はっきりした思想と信念があればこそ名誉や立場にとらわれることなく自らの名前を冠とした高島町に堂々と遊郭を誘致し、土地を有効利用する事が街の発展の根拠となることを示したのではないでしょうか。それは、言い換えれば、切った張ったで生きてきた嘉右衛門の心底に流れている気風というか「江戸っ子の粋」が本性を発揮させたに違いありません。

     いつの時代も、人が集まるところには遊興の場があり芝居や相撲などの興行も行われるわけで、横浜開港直後の安政6年(1859年)には、運上所(現:神奈川県庁付近)の隣に外国人専用の貸長屋があって、その一画には、既に、遊女屋が必然的に存在していました。そして、遊郭街である港崎町(Miyozaki-Cho)が出来たのは同年の12月のこと。埋め立て地である太田屋新田地内(現在の横浜公園)に遊郭街「港崎町」が作られたその痕跡は、現在、横浜スタジアムの中区役所側にある日本庭園の石灯籠と説明文にのみ残されています。

※ 今日はDeNAベイスターズと西武ライオンズの旗が棚引き、球春2022を迎えた横浜スタジアムのアナウンスが場外にも響きわたっている。そのライトスタンドの向こう、中区役所側の横浜公園内に日本庭園がある。そこに残されている港崎遊郭にあった岩亀楼の石灯籠とその説明文が昔を伝えているーーー。

     石灯籠の脇にある由来書きには、この一帯の埋め立て地が開港後、港崎町と名付けられ「岩亀楼(Ganki-Ro)」などの華やかな遊郭施設が林立していたこと、また、慶応2年(1866年)年の大火で焼失し、その跡地が横浜公園になった事が記されています。

     確かに、明治初期の物と思われる石灯籠の正面には「岩亀楼」の文字が刻まれているし、この石灯籠が、1度、南区三春台の妙音寺に移された後、妙音寺から横浜市に寄贈されたものであることも判明しています。 

     大火(1866年の豚屋火事)で焼失した港崎遊郭は、その後「吉原遊郭」と改称して移転した羽衣町(現:厳島神社の一帯)でも明治4年(1871年)の火災で焼失し、翌年の明治5年(1872年)年に全店が高島町へ移転して、さらに、明治10年(1877年)に真金町・永楽町へ移転しています。嘉右衛門が遊郭誘致に奔走したのは、その明治5年7月の事でしたから、2度目の火事で焼け出された遊郭一帯がまだ手付かずの状態の頃という事になり、全てが嘉右衛門の都合の良いように動いていた感が否めません。

     諸外国を意識し出した折も折、横浜の発展がすなわち日本の顔になることを意識すると同時に、庶民に必要な歓楽街を確保し、その存在を維持するには、まさに、嘉右衛門の計画はこの上ない好機だったのです。

※ 表紙に元町前田橋をいただく「文明開化期の東京・横浜 古写真でみる風景」(横浜開港資料館・横浜都市発展記念館 編)」に遊郭街として1丁目から9丁目まで見事に軒を連ねる建物群に埋め尽くされた高島町を見ることが出来る。特に立派な神風楼と岩亀楼の2大妓楼は個々に取り上げられており、前者が明治4年(1871年)から明治15年(1882年)まで高島町2丁目にあったことが記されているーーー。

     写真で見る岩亀楼は立派な3階建の木造建築で洋館の様相を呈しており、時計台が存在感を放つなど話題の豪華な楼閣だった事が想像できますが、それなりの問題もぼっ発します。それは、新橋から豪華で美しい鉄道の旅を楽しんで来て、風光明媚な横浜に着く最後の車窓から、どうして遊廓が林立する花街を眺めなければならないのかというものでした。

     この頃の鉄道運賃を今の貨幣価値に換算すると、東京横浜間は最低でも5千円以上したわけですから、上流階級や華族階級の富裕層が常用していたわけで、公に彼らを迎える側の行政としても、車窓の最後が花街というのはいかにも具合が悪い状況でした。特に、明治天皇のお召列車による横浜行幸の際には横浜に近づく以前にすべての車両の窓を閉じさせました。

     まあ、いつの世にもある事ですが、種々の不具合を行政側が放置することはありませんから、あろうことか、嘉右衛門が奔走して誘致した高島遊郭は明治14年(1881年)に閉鎖を余儀なくされます。火事等での焼失でもなく、僅か10年で閉鎖しなければならなくなった遊廓側には大変な痛手でした。高島遊廓閉鎖後、遊廓そのものは一時的に長者町付近に移設され、最後は関内吉田新田の奥にある永楽町・真金町エリアで「永真遊廓」として誕生することになります。高島遊廓で絶大な興隆を誇っていた岩亀楼と神風楼は移転費用が嵩(kasa)み、破産・廃業に追い込まれましたが、この「永真遊廓」は残り続け、昭和33年の売春防止法施行まで存続しました。(続く、、、)

Tommy T. Ishiyama

 

 

 

 

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