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*本コンテンツは、これまで元町公式メールマガジンにて配信しておりましたコラムです。

2021年(令和3年)8月20日号 元町コラム 
横浜開港200年/Y200(2059年)を夢みて!

【特集】 行く川の流れは絶えずして、、その56
                 〜 高島嘉右衛門さんのこと 〜(33) 

     大隈重信と伊藤博文が向かった先は、高島嘉右衛門が鉄道敷設に際する融資の約束を交わしたと言うイギリス人、リードが滞在している横浜居留地のホテルでした。ちなみに、グランド・ホテルが居留地20番(現在の「横浜人形の家」付近)に開業するのは、新橋(汐留)-横浜(桜木町)間に日本最初の鉄道が開通して1年後の1873年(明治6年)8月16日の事になります。

     横浜への道すがら2人が話し込んでいたのは、ボルトマンが得ていると言う徳川慶喜発行の鉄道敷設権利書の存在でした。「ボルトマン」と言うのは彼らが使っていた俗称で、名前がそう聞こえたのと、当時は発音がし易いように外国人の名前を勝手に変えてしまうのが常だったからで、この人物に関する同時代の別の資料には「ホットメン」とあるほか、半濁点を補って「ポットマン」として登場するものもあり、別人と誤解されていた時代もありましたが全て同一人物です。正しくは、このアメリカ人外交官の名前は「アントン・L・C・ポートマン」(Anton L.C. Portman)で、記録によれば、このポートマンは東インド艦隊総督のマシュー・ペリーによって艦隊書記兼参謀として登用され、再来航の際も通訳官として日米間の交渉に活躍した人物です。

     また、ポートマンは、オランダ語による日米和親条約の草案を作成したほか、アメリカの代理公使として1年半その任を務めており、その任務期間中に「フィーバン号事件」(長州藩によるアメリカ商人からの武器密輸問題)や、下関戦争(1863年と1864年 の長州藩 と イギリス ・ フランス ・ オランダ ・ アメリカ の列強4国との攘夷思想に基づく武力衝突)の処理、「富士山丸」問題(幕府がアメリカに発注した船の完成後に下関戦争によってその受け渡しを凍結した事件)の交渉、また、通商条約勅許問題の解決(兵庫開港要求事件)などに奔走しています。

     このポートマンが、エドウィン・ダン以前の駐日公使の中で日本語と日本の諸事情に最も長じていたことから、1868年1月17日(慶応3年12月23日)、懇意となっていた幕府老中・小笠原長行によって江戸〜横浜間の鉄道敷設の許諾を得ていたわけですが、1869年(明治2年)、新政府から「幕府による承認日が京都での新政府樹立後であるために全て無効」として拒絶されるに至るわけですが、これこそ、大隈と伊藤が描いた妙案であり奇策でした。

※愛称「ジャック」こと、横浜開港記念会館も見守った「東京オリンピック2020」の野球決勝戦は折しも日本対アメリカ。見事な日本チームの完封金メダル(初)に横浜のあちらこちらから大きな歓声が聞こえた。横浜開港50周年を記念して1917年に竣工したレンガと花崗岩で出来たこの記念会館が、嘉右衛門の意思を継いだように今日のヨコハマを見守っている。(2021年8月8日)ーーー。

※同日の横浜駅東口エリア。嘉右衛門の埋め立て工事により敷設された鉄道によって大発展を遂げた3代目横浜駅の海側、ベイエリアにも不夜城のように大商業施設が君臨しているーーー。

     さて、明治新政府の高官として横浜のリードを訪ねた大隈重信と伊藤博文は、その日のうちに仮契約を結びますが、急を察した嘉右衛門が再三リードを尋ねるものの仮病や居留守で逃げられてしまいます。鉄道敷設の為の金策アイディアをそのまま横取りされた嘉右衛門が、平静を得ようと、怒りを抑えながら身を清めて得た「卦」の暗示は奇妙なものでした。

山地剥〜上九 (Sanchi haku 〜 Kamiku)
「碩果(sekika 実った果物の意)食らわれず。君子は輿を得、小人は櫓(ro)を剥(oto)す。」

    君子とは誰のことなのか? 小人とは、、? 冷静な心で卦の暗示を読み取った嘉右衛門は鉄道敷設事業に舞い上がっていた自分を反省します。莫大な費用をかけて山を切り崩し、海を埋め立てなければ最適な横浜への鉄路が築けない事は熟知していましたが、卦の深意は「山を崩し、得ていたものを失う」とも読み取れることから、「築いた財を全て失い、行く先のあても無い海原を行く」、つまり、「命を落とす」との暗示と読み取り、伝馬町牢屋敷の出獄以来、皆の力を得て、横浜で順調にビジネスを展開して来た事への感謝の思いを巡らせる事によって、自分を一度清算すると共に「公益の為に、為すことを為す」という高島嘉右衛門自身の原点に舞い戻ることが出来たのでした。

     さて、横浜から東京へ引き返した伊藤はイギリス留学仲間の「井上 勝」に鉄道敷設の事業を任せる算段を決断します。萩藩出身の井上は、脱藩してイギリスに密航すると、ロンドン大学で土木や鉱山学を6年間も学んだ逸材でした。まさに伊藤の朋友としても、また、鉄道の専門性からも、最適の人選を伊藤は果たし、大隈と伊藤は、鉄道建設に向けて精力的に動き出すと同時に嘉右衛門を訪ねると、全ての事情を述べて深謝すると共に嘉右衛門が提出した願書を返還します。もとより、嘉右衛門とは認め合った仲間同士でしたが、一層の信頼で結ばれた瞬間でした。

     後年、伊藤と嘉右衛門の子供同士の婚姻もあって、その付き合いは40年にも及ぶ事になりますが、易学の予見から「伊藤博文暗殺」という死地「ハルビン」(中国黒竜江省人民政府の所在地)への公務を中止させようと必死に試みる嘉右衛門は、伊藤の死を決した旅立ちに、永遠の別れの涙を流し、ひとり横浜港の岸壁に佇む事になります。

     さて、鉄道敷設の願書取り下げに関する伊藤と大隈からの謝意をこころ広く受け止めた嘉右衛門は、改めて工事請負の申請をすると同時に、各所での山の切り崩しと同時に、最難所である神奈川青木町から横浜石崎までの深く切り込んだ形の入り江「野毛の浦」の一部を埋め立てる事によって、江戸と横浜を迂回することのない直線で結ぶ敷設案を提出します。

     伊藤の配慮によって、その埋め立て工事を嘉右衛門が引き受けることに進展して行きますが、それは、波乱万丈の上下降を繰り返す嘉右衛門の人生の新たな始まりでした。

(続く、、)

Tommy T. Ishiyama

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